東ドイツ紀行(1986年5月)・その8
第 八 章
5月9日(金)曇り、一時雨、夕方晴れ
マグデブルグは寝るだけ?
この街についていわゆる「マグデブルグの半球」以外思い浮かばないというのは、どうやら私の知識不足で、ここには大聖堂、聖マリア修道院などみるべきものも多いそうだ。しかし、もう余すところは一日、なにしろ先を急ぎますので朝食もそこそこに6時55分発のベルリン行き特急に乗る。今度は一時間余りで今夜の宿泊地ポツダムに着く。ここで誤算があった。せっかくポツダムに着いたのだから途中下車してホテルに荷物を置いて来ようと思ったのだ。
ところが、ポツダム中央駅からインターホテルポツダムのある街の中心までは市電で20分以上かかるのだ。
近くて遠いポツダムとベルリンの間
やっと荷物をホテルに預けてポツダムの駅にもどリベルリンヘむかう。ここに第二の誤算があった。地図でみるとポツダムとベルリンは隣接している。当然15分もあればベルリンの中心地へ行かれるものと思っていた。ところが実際にはかれこれ一時間もかかった。すなわち隣接しているのは西ベルリンであり、電車はここを迂回しており二度ばかり乗換えをしないと、フリードリッヒシュトラーセ駅には行かれないのである。
ウンターデンリンデン通り
フリードリッヒシュトラーセ駅に着いたのは10時半ごろであった。ただちに、ウンターデンリンデンヘ。今や、リンデンバウムも新緑の季節を迎えており、この国の表看板にふさわしくなんとも美しい。そのうえ広くて清潔な通りの片側には気のきいたブティックなどもある。まさに東欧のショーウィンドウである。
ただ、なんとも目障りなのが、東京でいえば銀座の尾張町の角に相当するところにでんとそびえているお城のようなソビエット大使館、通りをはさんで居座っているアエロフロートのベルリン支店なのだ。われわれからみても気になるのだからこの国のひとびとにとってはどんなにうっとうしいことであろう。街のあちこちに「ソ連との友好関係を深めよう」というスローガンが目につく。浮気をはじめたご主人がやたらに「愛しているよ」といいはじめるのと同じで、西側諸国との関係を深めつつあるからこそこの国がソ連に気を使っているのではなかろうか。
そのアエロフロートヘ航空券のリコンファーメイションに行く。若い窓口係りがこぼれそうな笑みを浮かべ(気持ちわるい)私の切符を受け取ると、手許の端末機をちょんちょんとたたいて「オーケー、べリーグツドマダム」とのたもうた。手渡された粗末なメモには便名、出発時刻などと一緒にわが留守宅の電話番号まで印字されていた。やれやれこれでひと安心。
ウンターデンリンデン通りが突き当たったところがブランデンプルグ門である。そのはるか手前に柵があってその先は立入禁止の無人地帯になっている。ここには国境警備隊らしき数人の姿がみえるだけだ。柵のこちら側では2、30人の観光客がお互いに記念写真のとりっこをしていた。
ただひとり中年の男性がじっと柵にもたれて何時までもブランデンプルグ門の彼方を見つめていた。おそらく西ベルリンに身内がいるのであろう。あくまでも明るく爽やかで清潔な風景のなかでのことだけに一層、この人の背中だけが悲しそうにみえた。
ブランデンプルグ門こそかつてのベルリンのシンボルであり門のうえには4頭の馬車る女神の像があるといわれている。これらの観光客がみんなで門のそばへ寄ってこの像を見物できる時代がはたして来るのであろうか。
ベルリンを歩く
ここからウンターデンリンデン通りを東にむかう。どっしりとした国立ドイツ図書館の隣の大きな建物はフンボルト大学。入り口には創設者、フンボルト兄弟の像がありベルリンの街を見下ろしている。中公新書の「フンボルト」によれば彼の論文には「---国家は人間のために存在するのであって、人間は国家のためにあるのではない。--国家のなし得る最も積極的なことは、市民の自発的な活動にいささかでも影響を及ぼすようなことから手をひくことであるーーー」ということが書かれているそうだ。彼は18世紀末に今日のドイツを想像できたのであろうか。
像のそばのベンチにはジーパンにティーシャツの男女の学生がくったくなげにくつろいでいた。
かつてここでは森林太郎(森鴎外)、北里柴三郎などたくさんの日本人が学んでいる。今回の旅行で出会った日本人はいずれも技術指導など「教える」ためにこの国に滞在している人であった。ここに時間のへだたりを感じる。
シュプレー川を渡ると中の島になっておりここは博物館が集中していることから博物館の島とよばれている。どっしりとした建物の旧博物館、国立美術館もみたかったがベルガモン博物館へ行った。ここには紀元前180年ごろの古代都市ベルガモンから発掘されたゼウスの神殿の祭壇、メソポタミアのバビロンで発掘された城壁の模様などすばらしいコレクションがあり、しかもいかにもドイツらしく見学者にみやすい陳列方式をとっている。ベルリンでどんなに時間がなくてもこれだけは見たかった博物館であったが実際みる価慣がある。
ホテルウンターデンリンデンのレストランで遅い昼食をとる。ここには西のレストランとおなじようなサラダバーがあり例のキャベツやじゃがいもだけでなくピーツ、トマト、カイワレらしきものなどいろいろ選べるようになっていた。ところがおなじテーブルの母娘はこの色とりどりのなかからキャベツだけをお皿に入れてきた。きっとふだん食べているものだけが安心してたべられるものなのであろう。私はパンを浮かべてオーブンで焼いたスープなどをこれが東ドイツ料理の食べ納めとばかりお腹いっぱいたべ、ベルリンの街をあとにした。
ベルリン無法者
シューネフェルトからポツダムにむかう列車のなかでめずらしい事件に出会った。サロンカーの座席に腰掛けていると青年団のような20人ぐらいの一隊がどやどやと乗り込んできて先に乗って座っている乗客になにか言った。そうするとドイツ人の乗客は通路に出て行った。彼らは手に手に酒びんを持っておりすでにかなりきこしめしている。
一人ぽつんと彼らのあいだに座っている私に気がつくと、リーダー格の男が私の前にきて「ハローグッドアフタヌーン、ナントカカントカ」と多分かれが知っている数少ない英語の単語とともに私は立ち退きを要求してきた。他の乗客を全員退い出して自分たちの専用車にしてじっくりお酒を飲もうという魂胆らしい。君子危うきに近寄らず、私も出てきた。
通路にいた女子学生らしい子が私が追い出されてくるのを見て目に涙をうかべながら退役軍人のようながっしりした身体つきの小柄な老人に必死の表情でなにか訴えている。
おそらく外国人にまであんなことをして恥ずかしいとでもいっていたのであろう。老人は車内にはいっていくと若者たちを睨みつけながら強い口調でなにかいっている。その甲斐あってかわれわれ迎えにくることこそしなかったが静かにはなった。車掌さんは検札にきたけれど見てみぬふりをしていた。
ここもひとつの国であってみれば、ヤクザもいれば、正義漢もいる、みてみぬふりをする人もいるーーーどこもおなじだなと思った。
ポツダムはセンスある街
ポツダム中央駅から街の中心地へは林のなかをくぐつて電車でいく。この街は大都市ベルリンに隣接していながら林と湖にかこまれた小粋なリゾートタウンである。
インターホテルポツダムはハーペル湖のはじっこにある堂々としたホテルである。(こんなに立派なホテルに泊めてくれとたのんだおぼえはない)。この街で必見のものといえばサンスーシー宮殿とツェツィーリエンホフである。
ところが、この時すでに開館時刻の5時間近であった。朝方のんびり時間を消費したので遂にポツダム見物の時間がなくなったのだ。
ここにも厳しい現実が
とにかくより近いツエツィーリエンホフヘ急ぐ。赤レンガの門を入ってよく手入れされた新庭園のなかを15分近く歩くとやっとツェツィーリエン宮殿に着く。庭園は通路の両側に緑の木立がつづいており、そのまわりは芝生になっていた。右手には芝生のむこうにへイリンガー湖が光
っている。木々では小鳥が歌をうたっている。途中の建物は兵器博物館だ。この辺りにはロシア兵がたくさんくつろいでいた。その少し先にツエツィーリエンホフがあった。
ポツダム宣言により、その名を当時のすべての日本人に忘れることのできないものにしたポツダム会談のおこなわれた場所である。20世紀のはじめホーエンツォレルン家最後の王子であったウイルヘルムが住んでいた宮殿ときいていたが英国風の建物である。もう5時を過ぎているので内部の見学は出来なかったが田舎の別荘のような作りになっておりむしろ質素な感じがする。あれから41年、OLの私がはるばる日本からこうして気軽に見物に来ていることを知ったら当時の米、英、ソの3首脳はなんと思っただろうか。
宮殿を後にしてしばらくすすむと森のなかに湖に沿って金網が張ってある。掲示板があって「国境につき注意!」と各国語で書いてある。この先は西ベルリンなのである。
そういえば、さっき手前にあった小高い丘は、こちら側から西を眺めるためのお立ち台であったのだ。オペラグラスをぶらさげた人たちがぞろぞろ降りてきたのは西側見物を済ませたひとたちだったのだ。また、そのすぐ先には米軍の駐屯地がある。(もし私の見間違いでなければ)。日本にいると戦後は遠くなりにけりの感があるがこの辺をうろうろしているとまだ、第二次世界大戦は終わっていないのではないかという錯覚に陥ってしまう。出口のすぐ脇にバス停があり丁度よくバスが待っていた。ホテルの近くまで5分ぐらいで着いた。
虹の終楽章
ホテルに着くと、今回の旅行で4回目の夕だちになった。
40分程で雨があがったので外に出てみた。ハーベル湖にかかる橋のうえに見事な虹がでていた。私にはこの虹が明朝、ここを離れる私へのこの国からの贈り物のように思えた。
わずか6泊7日の短い滞在ではあったが本当に感じること、考えさせられることの多い旅であった。しかし、不勉強のため歴史的、社会的背景が理解できていないのでせっかくの文化遺産も、現実も消化できないことがあまりにも多かった。
日本に帰ったら極力、時間を作って本を読もう。たとえば、ワイマール共和国のこと、ナチズムのこと、ヤルタ体制のこと、社会主義経済の現状など。よく勉強してからもう一度ここへきてみよう。 これが私のポツダム宣言である。
--・完--



















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