2008.08.31

東ドイツ紀行(1986年5月)・その8

 第  八  章

 5月9日(金)曇り、一時雨、夕方晴れ

 マグデブルグは寝るだけ?

 この街についていわゆる「マグデブルグの半球」以外思い浮かばないというのは、どうやら私の知識不足で、ここには大聖堂、聖マリア修道院などみるべきものも多いそうだ。しかし、もう余すところは一日、なにしろ先を急ぎますので朝食もそこそこに6時55分発のベルリン行き特急に乗る。今度は一時間余りで今夜の宿泊地ポツダムに着く。ここで誤算があった。せっかくポツダムに着いたのだから途中下車してホテルに荷物を置いて来ようと思ったのだ。
ところが、ポツダム中央駅からインターホテルポツダムのある街の中心までは市電で20分以上かかるのだ。

 近くて遠いポツダムとベルリンの間

 やっと荷物をホテルに預けてポツダムの駅にもどリベルリンヘむかう。ここに第二の誤算があった。地図でみるとポツダムとベルリンは隣接している。当然15分もあればベルリンの中心地へ行かれるものと思っていた。ところが実際にはかれこれ一時間もかかった。すなわち隣接しているのは西ベルリンであり、電車はここを迂回しており二度ばかり乗換えをしないと、フリードリッヒシュトラーセ駅には行かれないのである。

 ウンターデンリンデン通り

 フリードリッヒシュトラーセ駅に着いたのは10時半ごろであった。ただちに、ウンターデンリンデンヘ。今や、リンデンバウムも新緑の季節を迎えており、この国の表看板にふさわしくなんとも美しい。そのうえ広くて清潔な通りの片側には気のきいたブティックなどもある。まさに東欧のショーウィンドウである。
 ただ、なんとも目障りなのが、東京でいえば銀座の尾張町の角に相当するところにでんとそびえているお城のようなソビエット大使館、通りをはさんで居座っているアエロフロートのベルリン支店なのだ。われわれからみても気になるのだからこの国のひとびとにとってはどんなにうっとうしいことであろう。街のあちこちに「ソ連との友好関係を深めよう」というスローガンが目につく。浮気をはじめたご主人がやたらに「愛しているよ」といいはじめるのと同じで、西側諸国との関係を深めつつあるからこそこの国がソ連に気を使っているのではなかろうか。
 そのアエロフロートヘ航空券のリコンファーメイションに行く。若い窓口係りがこぼれそうな笑みを浮かべ(気持ちわるい)私の切符を受け取ると、手許の端末機をちょんちょんとたたいて「オーケー、べリーグツドマダム」とのたもうた。手渡された粗末なメモには便名、出発時刻などと一緒にわが留守宅の電話番号まで印字されていた。やれやれこれでひと安心。
 ウンターデンリンデン通りが突き当たったところがブランデンプルグ門である。そのはるか手前に柵があってその先は立入禁止の無人地帯になっている。ここには国境警備隊らしき数人の姿がみえるだけだ。柵のこちら側では2、30人の観光客がお互いに記念写真のとりっこをしていた。
ただひとり中年の男性がじっと柵にもたれて何時までもブランデンプルグ門の彼方を見つめていた。おそらく西ベルリンに身内がいるのであろう。あくまでも明るく爽やかで清潔な風景のなかでのことだけに一層、この人の背中だけが悲しそうにみえた。
 ブランデンプルグ門こそかつてのベルリンのシンボルであり門のうえには4頭の馬車る女神の像があるといわれている。これらの観光客がみんなで門のそばへ寄ってこの像を見物できる時代がはたして来るのであろうか。

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 ベルリンを歩く

 ここからウンターデンリンデン通りを東にむかう。どっしりとした国立ドイツ図書館の隣の大きな建物はフンボルト大学。入り口には創設者、フンボルト兄弟の像がありベルリンの街を見下ろしている。中公新書の「フンボルト」によれば彼の論文には「---国家は人間のために存在するのであって、人間は国家のためにあるのではない。--国家のなし得る最も積極的なことは、市民の自発的な活動にいささかでも影響を及ぼすようなことから手をひくことであるーーー」ということが書かれているそうだ。彼は18世紀末に今日のドイツを想像できたのであろうか。
像のそばのベンチにはジーパンにティーシャツの男女の学生がくったくなげにくつろいでいた。
 かつてここでは森林太郎(森鴎外)、北里柴三郎などたくさんの日本人が学んでいる。今回の旅行で出会った日本人はいずれも技術指導など「教える」ためにこの国に滞在している人であった。ここに時間のへだたりを感じる。
 シュプレー川を渡ると中の島になっておりここは博物館が集中していることから博物館の島とよばれている。どっしりとした建物の旧博物館、国立美術館もみたかったがベルガモン博物館へ行った。ここには紀元前180年ごろの古代都市ベルガモンから発掘されたゼウスの神殿の祭壇、メソポタミアのバビロンで発掘された城壁の模様などすばらしいコレクションがあり、しかもいかにもドイツらしく見学者にみやすい陳列方式をとっている。ベルリンでどんなに時間がなくてもこれだけは見たかった博物館であったが実際みる価慣がある。
 ホテルウンターデンリンデンのレストランで遅い昼食をとる。ここには西のレストランとおなじようなサラダバーがあり例のキャベツやじゃがいもだけでなくピーツ、トマト、カイワレらしきものなどいろいろ選べるようになっていた。ところがおなじテーブルの母娘はこの色とりどりのなかからキャベツだけをお皿に入れてきた。きっとふだん食べているものだけが安心してたべられるものなのであろう。私はパンを浮かべてオーブンで焼いたスープなどをこれが東ドイツ料理の食べ納めとばかりお腹いっぱいたべ、ベルリンの街をあとにした。

 ベルリン無法者

 シューネフェルトからポツダムにむかう列車のなかでめずらしい事件に出会った。サロンカーの座席に腰掛けていると青年団のような20人ぐらいの一隊がどやどやと乗り込んできて先に乗って座っている乗客になにか言った。そうするとドイツ人の乗客は通路に出て行った。彼らは手に手に酒びんを持っておりすでにかなりきこしめしている。
一人ぽつんと彼らのあいだに座っている私に気がつくと、リーダー格の男が私の前にきて「ハローグッドアフタヌーン、ナントカカントカ」と多分かれが知っている数少ない英語の単語とともに私は立ち退きを要求してきた。他の乗客を全員退い出して自分たちの専用車にしてじっくりお酒を飲もうという魂胆らしい。君子危うきに近寄らず、私も出てきた。
 通路にいた女子学生らしい子が私が追い出されてくるのを見て目に涙をうかべながら退役軍人のようながっしりした身体つきの小柄な老人に必死の表情でなにか訴えている。
おそらく外国人にまであんなことをして恥ずかしいとでもいっていたのであろう。老人は車内にはいっていくと若者たちを睨みつけながら強い口調でなにかいっている。その甲斐あってかわれわれ迎えにくることこそしなかったが静かにはなった。車掌さんは検札にきたけれど見てみぬふりをしていた。
 ここもひとつの国であってみれば、ヤクザもいれば、正義漢もいる、みてみぬふりをする人もいるーーーどこもおなじだなと思った。

 ポツダムはセンスある街

 ポツダム中央駅から街の中心地へは林のなかをくぐつて電車でいく。この街は大都市ベルリンに隣接していながら林と湖にかこまれた小粋なリゾートタウンである。
 インターホテルポツダムはハーペル湖のはじっこにある堂々としたホテルである。(こんなに立派なホテルに泊めてくれとたのんだおぼえはない)。この街で必見のものといえばサンスーシー宮殿とツェツィーリエンホフである。
ところが、この時すでに開館時刻の5時間近であった。朝方のんびり時間を消費したので遂にポツダム見物の時間がなくなったのだ。

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 ここにも厳しい現実が

 とにかくより近いツエツィーリエンホフヘ急ぐ。赤レンガの門を入ってよく手入れされた新庭園のなかを15分近く歩くとやっとツェツィーリエン宮殿に着く。庭園は通路の両側に緑の木立がつづいており、そのまわりは芝生になっていた。右手には芝生のむこうにへイリンガー湖が光
っている。木々では小鳥が歌をうたっている。途中の建物は兵器博物館だ。この辺りにはロシア兵がたくさんくつろいでいた。その少し先にツエツィーリエンホフがあった。
ポツダム宣言により、その名を当時のすべての日本人に忘れることのできないものにしたポツダム会談のおこなわれた場所である。20世紀のはじめホーエンツォレルン家最後の王子であったウイルヘルムが住んでいた宮殿ときいていたが英国風の建物である。もう5時を過ぎているので内部の見学は出来なかったが田舎の別荘のような作りになっておりむしろ質素な感じがする。あれから41年、OLの私がはるばる日本からこうして気軽に見物に来ていることを知ったら当時の米、英、ソの3首脳はなんと思っただろうか。
 宮殿を後にしてしばらくすすむと森のなかに湖に沿って金網が張ってある。掲示板があって「国境につき注意!」と各国語で書いてある。この先は西ベルリンなのである。

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そういえば、さっき手前にあった小高い丘は、こちら側から西を眺めるためのお立ち台であったのだ。オペラグラスをぶらさげた人たちがぞろぞろ降りてきたのは西側見物を済ませたひとたちだったのだ。また、そのすぐ先には米軍の駐屯地がある。(もし私の見間違いでなければ)。日本にいると戦後は遠くなりにけりの感があるがこの辺をうろうろしているとまだ、第二次世界大戦は終わっていないのではないかという錯覚に陥ってしまう。出口のすぐ脇にバス停があり丁度よくバスが待っていた。ホテルの近くまで5分ぐらいで着いた。

  虹の終楽章

 ホテルに着くと、今回の旅行で4回目の夕だちになった。
40分程で雨があがったので外に出てみた。ハーベル湖にかかる橋のうえに見事な虹がでていた。私にはこの虹が明朝、ここを離れる私へのこの国からの贈り物のように思えた。
 わずか6泊7日の短い滞在ではあったが本当に感じること、考えさせられることの多い旅であった。しかし、不勉強のため歴史的、社会的背景が理解できていないのでせっかくの文化遺産も、現実も消化できないことがあまりにも多かった。
 日本に帰ったら極力、時間を作って本を読もう。たとえば、ワイマール共和国のこと、ナチズムのこと、ヤルタ体制のこと、社会主義経済の現状など。よく勉強してからもう一度ここへきてみよう。 これが私のポツダム宣言である。

 --・完--

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東ドイツ紀行(1986年5月)・その7

 第 七  章

 5月8日(木)くもり、ときどき晴れ

 さて、いよいよベルリンヘ

 昨夜はよく眠れなかったが、今朝は早く目がさめた。今日はベルリンヘ行く日なのだ。ライプツィヒからベルリンのシェーネフェルト空港駅まではノンストップで1時間50分。幹線だけにコンパートメントもきれいだ。女の車掌さんが来て特急券を買わされた。300円なり。空港に駅
があって、しかも急行、特急がすべて止まり、国電までが乗り入れているのは東ベルリンだけだと思う。
 とりあえず、西ベルリンヘいってみたい。西ベルリンヘの入り口(すなわち、壁の穴)はふたつある。ひとつはチェックポイントチャーリー、もうひとつはフリードリッヒシュトラーセである。今回は国電の便のよいフリードリッヒシュトラーセ経由でいくことにした。シューネフェルト空港駅からフリードリッヒシュトラーセ駅までは案内板をたより国電を乗り換えてなんとか行けた。

 とうりゃんせ、壁の穴

 ここは、ターミナル駅なのでなかなか大きい。インフォーメーションオフィスの前の案内板には駅構内の見取り図があって、レストラン、キオスク、トイレなどの場所はよくわかる。ところが、肝心の西ベルリンヘの入り口が見つからない。通りがかりのひとにきいてみようとも思ったが、ことがことだけにべルリン市民にたずねるのはちょっとはばかられた。困ったな、と思ってなおもよく見取り図をみるとポリツァイという字が見えたので行ってみた。パスポートをみせると、こちらの聴きたいことがすぐわかり、コンコースの外をさして「アウス、アウス」という。  
 外へでてみるとなるほど、駅と隣の体育館のような建物との間に空き地がありここに動物園の入場券売り場のような窓口がいくつか並んでいた。なんとなく一番とっつきの窓口に並んだ。この日は特にすいていたのか並んでいたのは4、5人だった。しばらくすると前に並んでいたおばあさんが、私の袖をひっぱり何かいっている。例によってドイツ語は分からないのでキョトンとしていると、十六の菊のご紋章のついた赤いパスポートを指して次に奥の窓口を指す。ハハア、ここじゃないんだな、ということが分かったので改めて出札窓口をよくみてみた。そうすると窓口の上にプレートが出ている。今いるところは「BÜRGER DDR」、隣は「BÜRGER BDR」、その次は「BERLIN STAAT--なんとか」とある。私はその場に荷物を置きバッグからGEMの独和辞典をだしてBÜRGERという言葉を調べた。そうか、手前は東ドイツ国民用、次は西ドイツ国民用、その奥はベルリン市民用(ということは彼らは別のパスポートを持っているのかしら)ということか。
 それならそのどれにも属さない私は一番奥の窓口にいけばいいんだな。
 そこにはふたりしか並んでいなかった。前の小柄な紳士は口髭なんかはやしてどこか気障な感じがしたらやっぱりイタリア人だった。次の黒いコートの婦人はポーランドのパスポートを持っていた。二人とも1、2分で済んだ。私の番がきて窓口の若いうす青い目のポリツァイさんにパスポートをみせた。彼は先ず私の顔を穴のあく程みつめてからパスポートの写真をじっとみた。次にパスポートをばらばらめくってヴィザを確認した。そして私のほうをみて「アインマル、かウントツーリュック、なのか」と手真似をまじえながら質問した。そのツーリュックのほうで頼むというとすぐ通してくれた。

 国電のなかはため息の合唱

 べ二アで囲った細い通路を通り抜けるとまた駅のコンコースに出た。ここから階段を登るとホームになっている。ここには別の国電が待っておりすでに半分くらいの座席がうまっていた。車掌さんも運転手さんもさっきと同じ東ドイツの制服を着ている。この後、さらに5、6人乗ってから電車は動きだした。出るとすぐ高架線になり例の壁に添ってしばらく走る。壁越しに西ドイツの国旗がたかだかとあがっているのが見える。車内から小さな歓声があがった。
 やがて電車は国境を越え西ベルリンの最初の駅に到着する。
 ここで東ドイツ側の乗務員がすべて降りる。引き換えに西ベルリンの乗務員が乗り込んでくる。乗務員交替を終えると電車はすぐに発車した。この時、私の前の座席にいた4人の家族ずれのおかあさんがびっくりするような大きなため息をついた。これにつられて車内のあちこちからため息や歓声がきこえてきた。この家族ずれ、古ぼけたトランクを8つも持っていたし服装も古びている。どんな事情があったのか。何か重い過去がこの時代遅れなトランクの底に隠されているように感じられる人たちであった。サラダのたっぷりついた昼食を食べるのが西ベルリンヘいく主な目的という人は少なくとも私のほかにはいない模様である。
 (東ドイツでは、到着した翌々日以降、生野菜がレストランのメニューからもマーケットからも消えた。例のチェルノブイリの放射能に対する懸念からであるう。しかし、後に会った日本人の話では、まったく何のご挨拶もなく「突然」姿を隠したのである。帰国の前々日ころには、また何のご挨拶もなく登場した)
 こんなことを考えることすら何か不謹慎なような車内の雰囲気であった。

 自由とはきたなく、うるさいもの

 5分ほどでZ00駅、すなわち動物園前駅、に到着。ここで下車した。東京でいえば上野と銀座をつきまぜたような繁華街だ。西ベルリン側では、まったく入国審査はない。ホームから通路へ出てびっくりした。なんともきたないのである。
 空き缶やビニールが散乱し埃っぽい。塵ひとつおちていない東ベルリンからくるとよけいにそう感じる。駅の構内をでると、まずコジキが目に付いた。しばらく歩くとアル中のおっさんがいた。完全に目が据わっていて怖い。とにかく、オイロバツェンターというルミネのような雑居ビルヘいき、ここで煮込み料理とサラダを食べた。オイローバツエンターの展望台はティールームになっている。ここで600円のクリームサンデーを嘗めながら(西ベルリンは物価が高いのである)街を見渡していると厚い雲の割れ目から太陽が顔をだした。まぶしい日差しを浴びながら私は太陽と話し込んでいた。
  「コジキがいるっていうけど、東ではコジキをする自由もないということじゃないのかね」。「でも西側諸国の人たちはこの40年、ありとあらゆる自由を試してみたでしょう。ゼネスト、ウーマンリブ、学園紛争、離婚、ヒッピー、ヌーディストクラブーーーそれで何が得られたんですか。いまじや、ユーロペシミズムなんていっているでしょう」。「しかし、あんたは、ベルリンの壁を越えてきたひとたちのあのため息をどうおもうかね」。「でも、この西ベルリンこそ籠の鳥でしょう。壁に囲まれている街なんかに住んでいるからアル中になるんじゃないかしら」。「まあ、とにかく難しい問題だよ。あんたもせっかちに結論を出さずによくみてよく考えることだね」。
 太陽が雲の奥へ帰ってしまったので展望台を降りて街に出てみた。クーダム通りなどを歩いてみたがなんとなく落ち着かない。それに、いまやニナリッチもバーバリも西のお金さえ持っていれば東のインターショップでも買えるのだ。
 少し早いけれど東に戻ることにしてフリードリッヒシュトラーセ駅に向かった。

 えらく早かったな

 Z00駅でキオスクにいってみた。西側の新聞を見出しだけでもみたいと思ったのだ。「新聞スタンドはどこ」ときくと売り子のおじいさんはにこにこして壁を指した。8mぐらいの壁がわ全体が新聞と雑誌でうまっているのだ。
私のわかるものだけでもフランクフルターアルゲマイネ、ニューヨークタイムズ、イズベスチヤ、人民日報、朝日新聞など。このほかアラビア語、ギリシャ語などの紙名すら読めないものもたくさんあった。
 かつて東西両ベルリンは東西両陣営のショウウインドウだと言われていたという。このウインドウ較べ、いまやクリーンで秩序正しくしかも気の利いたブティックなどの並んでいる東ベルリンのほうに軍配があがることは、ごみだらけでコジキやアル中のうろうろしている西ベルリンも認めていることだろう。しかし、この新聞スタンドは、東ベルリンというショウウインドウが西側諸国では品揃えの目玉となっている自由、中でも情報の自由という品揃えに欠けていることを訪れたひとに示しているのだなと思った。
 新聞の見出しだけみた限りではこの世の中、大事件は起こっていない。記念に切手を買った。ただし、駅の郵便局には記念切手はなかったので通常切手を買った。西ドイツのものと同じものだが、DEUSCHE BUNDESPOST BERLINと国名にべルリンという字が入っている。
 帰路の入国手続きも入国カードに残りのホテルヴァウチャーを添付して渡すだけで簡単に終わった。しかし入国査証料1200円也をしっかりとられた。ずんぷん高いサラダについた。東側のコンコースで往路の窓口にいたポリツァイさんが交代で一戻ってくるところに出会った。こっちを向いてにやにやしながらなにか言っている。おそらく、「ずいぶん早く帰ってきたな」というような意味のことをいっているのであろう。

 鈍行でマグデブルグヘ

 行きと同じ要領で今度は逆に東の国電に乗り換えてアレキサンダープラッツまで行く。ここには、大きなホテル、デパートの他、われわれ外人旅行者の世話を一手に引き受けているライゼビューローの本店がある。ここで、もう一度、ベルリン市内のホテルを捜してもらおうというのだ。
 我ながらずいぶんしっつこいと思う。しかし結局ここでも「残念ですが」ということになる。
 ようやく諦めてマグデブルグにいくことにする。ところがシューネフェルト駅にいってみるとマグデブルグ行きの急行は出てしまっていた。駅の時刻表によると次の急行がマグデブルグに着くのは24時になる。もっと早く着くローカル線があるのではなかろうか。駅のインフォーメーションオフィスにいってみた。日本と違って時刻表を持っているひとの少ないヨーロッパではこの種のものはよく利用されているが、ここもご多聞にもれずふたつの窓口はお上りさん達で賑わっていた。窓口の中年女性は私の求めに応じて手許の記入用紙に時刻表も見ずに出発時刻、乗り乗換駅の到着時刻、出発時刻、マグデブルグヘの到着時刻をさらさらと書いてくれた。これによると23時には着く。
 まだすこし時間がある、駅のセルフレストランでハンバーガーを食べる。パンもふんわりして暖かかったし、わりにおいしかった。

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2008.08.30

東ドイツ紀行(1986年5月)・その6

 第 六 章

 5月7日(水)晴れ、夕方雨、日中暑い

 エルベの船旅

 今日は気分をかえてエルベの船旅を楽しむことにした。
マイセン行きは出発時刻の関係で無理なので逆にエルベを遡ってみることにした。遊覧船はテラスの下からでている。乗船券は片道l時間半の船旅で70円である。定刻に岸を離れるとちょうどパリのバトームシューのように街の景色をみせながらいくつもの橋をゆっくりゆっくりくぐつていく。                      
やがて街を離れると両岸は緑が深くなってくる。緑の間には古いシャトーやマンションが見え隠れする。そしてエルベはゆっくりとながれている。あの戦火のさなかにもこんなに美しい流れだったのであろうか。川幅は徐々にせばまっていく。両岸は草が萌えておりホルスタインがねそべっている。ポプラの並木が川面に陰を落としている。
 船はどこにでもあるような遊覧船だ。乗客は80%ほどの混みかた、チェコ、ブルガリアなど東欧の人が多いようだ。売店では絵はがきや写真も売っている。また、たのめばコーヒー、ビール、ジュースも持ってきてくれるしソーセージ、黒パンなどで軽食をとることもできる。マイクを使った説明などはない。到着のときだけアナウンスがある。
船員はここでもイレズミをしている。

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 風に吹かれてぼんやりと景色ながめていると、突然、女の子がきて袖をひっぱって何かいう。一目みて知的障害の子とわかった。「こんなところで何をしているの。早くこっちでみんなと遊びましょう」とでもいっている様子。
明らかに私を仲間のひとりと思っている。ついて行ってみると船尾のほうにこの子の仲間がたくさんいた。おそらく、障害児学級の遠足なのだろう。それにしても、私をみてすぐ同類とわかったのはさすがだ。一緒に遊んでいると先生が挨拶にきた。さすがドイツでこんな子供たちに対してもなかなか躾が厳しい。そうこうしているうちに下船予定のクラインチャッハヴィッツという船着場に着いた。

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 市電の運転手は困惑する

 ここは、まったくの草はらでなんにもない。ベンチに座ってのんびりと川をみていた。さて、帰るとなると、ここはどこなのか、どうやったらドレスデンに戻れるのか、さっばり分からない。ちよっと心細くなった。でも、船着場がある以上街が近くにあるに違いない。そう思って家のあ
る方向にどんどん歩いていった。びっくりするほど立派な家が立ち並んでいる。どの家も庭が広く季節の花が咲きみだれている。社会主義国家にも高級住宅地があることを初めて知った。地方都市だから政府高官の家のはずはない。
ドレスデンは工場の多いところだから、おそらく国営企業のエライサンの住宅なのだろう。
 更に行くと市電がみえた。シメタ!これで安心だ。運転手さんに「この電車は駅にいきますか」ときくと、「何処の駅にいきたいのか」ときく。「どこでもいいから最寄りの国鉄の駅までいきたい」---といえるほど、じつはドイツ語はできない。運転手も困ってしまったようだ。もじもじしていると市電はいってしまった。5分ほどしてまたきた。同じように「バンホフにいくか」ときくと手真似で乗れと合図する。
 市電は、住宅地をぬけ、工寒帯を通り、労働者住宅らしい団地(先程の高級住宅とは大分違う。社会主義国にも歴然と格差は存在する)の前を通ってえんえんと走った。
おかげでドレスデンの市内見学ができた。しかも、観光バスではみられない街の様子がよくわかった。スポーツセンターの前を通り電車はとうとうドレスデン中央駅に到着した。やれやれ助かった。ホテルヘいって荷物を受け取るとライブツィヒにむかうべく駅へいった。

 社会主義国のボナペテ

 とにかく、おなかがすいた。この駅には、セルフサービスのを含めて3つのレストランがある。この日は中級のレストランヘいってみた。隣のテーブルのひとが、大皿に焼肉やサラダを山盛りにした料理をもらっているのが美味しそうにみえたので、蝶ネクタイに白の上着のウエイターに手真似をまじえて注文した。彼は運んできた料理をテーブルにならべると「ボナペテ、マダム」といった。もちろん、お勘定のとき、これに、見合ったチップを置いたことはいうまでもない。
 江国 滋氏の「旅はプリズム」という本は、同氏が東ドイツ政府に招待されたときの旅行記であるが、このなかに、レストランが満員であやうく食事をしそこねる話、ウエイトレスの態度が悪くて腹をたてる話か再三でてくる。今回の旅行中、そんなことはまったく経験しないですんだ。招待客であり現地のガイドに四六時エスコートされていてこうなのだから当時1976、7年ごろは余程、事情がわるかったのであり、ここ数年で大幅に好転したのであろう。
 目下、国をあげてサービス改善に精一杯努力していることはよくわかる。たとえば、インターホテルなどでは、日本の会社のように従業員が胸に名札をつけており、「万一、応対の悪いものがおりましたら名札の名前をみておいてマネージャーまでご一報ください」という掲示がでていたり、例の「バスルームの清掃 1、よい  2、ふつう 3、わるい」といつたスタイルのアンケートがライティングデスクに置いてあったりするのだから。
 そのうえ商店でも、郵便局でも、「この窓口は何曜日は何時から何時まで開いています」ということが明記してあり、しかも私の経験では間違いなくその時刻には係員がいた。
 でも、ボナペテ、マダムは一寸意外であった。

 ライプツィヒ市民はホテルメルクアを見上げる

 急行に乗ればライブツィヒまでは1時間半でいく。小さい国なので大都市相互の距離はほどんど2時間か3時間以内だから移動にはあまり時間をとられない。列車がライブツィヒにさしかかると早くも車窓から天高くそびえるホテルメルクアが目に飛び込んでくる。中央駅のすぐわきにあり27階建、高さ100m。泊まるのが気恥ずかしくなるようなごたいそうなホテルだ。勇気をふるってフロントに近づく。厳かに、且つ、にこやかに迎えられた。
 5年前、鹿島建設の施工により完成、エレベーターは三菱電機の高速用が据付られている。単に入れ物だけでなく、ホテルのソフトも日本流だ。部屋には小型冷蔵庫、いわゆるミニバーがあり、ちゃんと伝票とエンピツが置いてある。廊下の大型冷蔵庫には、ミズワリには欠かせないアイスキューブがたっぷりと入っている。トイレットは消毒済みのシールで封印されている。ドアのノブにかける「DO NOT DISTURB」の札も独、英、露、仏、西とあって最後は「起こさないでください。就寝中のため」という日本語である。MESSEのときなどにやってくる西側の
ビジネスマン向けで、おそらく日本の商社マンも利用するのであろう。
 ここにはプールはいうにおよばずサウナからフィットネスクラブまであるそうだ。正に至れりつくせりの感がある。
立派なものを作るとなればとことん立派にしないと気が済まないというのもやはりドイツ式である。ここだけは、超一流だけあって朝食も例の8マルクの枠はなく食べ放題の由。

 またまた、ライゼビューローヘ

 まず、ライゼビューローにいく。明日のホテルがマグデブルグに指定されている。誰もこんなところをたのんだ覚えはない。一方的に当てがわれたのだ。明日はベルリン見物を予定しているのにそんなところに泊まったら不便だ。大体、マグデブルグになにがあるというのだ。昔、教科書で真空の実験をするために馬で空気を抜いた玉を両方からひっぱった話がでていたが、私がこの街について知っていることといえばこれだけだ。メッセライゼビューローには例によっておばちゃんがいて「分かりました。ベルリンにきいてみましょう。但しベルリンのホテルはみんな高いですがよろしいですね。いえ、差額を払っていただくという訳にはいかないのです。一旦全額支払っていただいてマグデブルグのクーポンは日本へ帰ってから払い戻してもらっていただくことになりますが」。と分かりやすい英語で応じてくれた。なんでもいいからとにかくベルリンに泊まりたいというと20分ぐらいあちこち精力的に電話をかけていたが、「アイアムソーリー、ベルリン市内のホテルはすべて満員です」とのこと。丁寧にお礼をいってライゼビューローを後にした。

 聖トマス教会にて

 街を歩いてみる。若いひとが多い。服装もなかなか垢抜けしている。本屋、楽譜屋がめだつ。たしか、ペーター版、レクラム文庫の故里のはず。楽譜屋には、モーツアルト、ベートーベン、バッハ、メンデルスゾーンなどの古典が多い(昔のペーター版にくらべ紙質がよくない)。ここの国にきてからヴァイオリン抱えた子供によくあう。クラシック音楽は盛んのようだ。
 また、本屋さんにはコンピューター関連のものが目につく。この国は今、国をあげてハクテク化に取り組んでいるのだ。
 先ず、聖トマス教会へ。ここでは、ヨハン・セバスチャン・バッハが1723年から世を去るまでつとめていて沢山の名曲を残しており、今もここに眠っている。祭壇に墓標があり、赤いバラが手向けてあった。一体、幾度、バッハの音楽に慰められたことだろう。きっと、この後もまた。
 幸いにして、今回の旅ではアイゼナッハ、ワイマール、ライプツィヒとケーテンをのぞき、バッハの足跡をすべてたどることができた。
 ここで、はじめて、日本人観光客に出会う。新婚らしいカップルで当地のガイドを連れている。ガイドは英語で解説していた。聖トマス教会は小さいが、すきっとしたゴチック建築でステンドグラスも美しい。

 何はさておきゲバントハウス

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 ライプニッツの像のあるライブツィヒ大学をちょっとみて再建なったゲバントハウスヘいく。思えば東ドイツにきてまだ一度もコンサートに行っていない。いくならば今夜をおいてチャンスはない。入口の案内版によると木曜は大ホールは休みだが、今夜は小ホールでソ連のピアニスト、
ルドルフ ケーラーというひとのリサイタルがある。プログラムはショパンのポロネーズ、ノクターン、プレリュード、リストの葬送曲(はじめて聴く曲)、ハンガリアンラプソディ、ベトラルカのソネット。

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 早速、窓口にいって当日売りの切符は何処で売っているかを尋ねる。といってもドイツ語はわからない、知っている限りの単語を必死でならべる。「ホイテ、アーベント、クライナーザール、ピアノ、いや、ええとクラヴィールかな、チケットじゃなくてカルテかしら」。こつちのいったことが分かったらしくしやべりだす。さっばり分からないけどジーベンウーアといいながら小ホールの入口を指差す。〈多分、7時にここにくれば買えるのであろう。違ったらどうするか、心配ない、別に生命に係わる問題ではない。大学出のインテリと違って庶民はたくましく、恥しらずに旅を続ける。〉

 レストランさくらと、また親切な日本人

 こうなると忙しい。ホテルに戻って着替えなければ。とはいっても着たきりスズメのこと、でもコンサートに行くのだからせめてブラウスぐらいは替えよう。それから食事も済ませておかなければ。
 ホテルメルクアには、日本レストラン「さくら」があって、東ドイツの板前さんが腕をふるい、東ドイツの娘さんがお給仕をしてくれるとか。話のタネにここにいってみた。鉄板焼きを注文する。急いでもらわねば。ところで、ええと、「急いでください」は何というんだったっけ。わずかな単音をやり繰りしている身には一つ忘れるのは痛手である。近くで列車の走る音がする。急行列車は確かシュネルツークだ。青い眼の板さんに「シュネルツーク、ビッテ」というと分かったらしくこコニコしていた。やがて、紺地のゆかたに黄色の博多帯の東ドイツ娘さんがしずしずと赤だしをお盆に乗せて運んでくる。突き出しは糸ごんにゃくときのこの煮付け。あとビールと鉄板焼き。これは牛の他にじゃがいも、人参、しいたけ。タレはボンズとゴマダレがグートとのこと。
 テーブルの向こう側の3人達れのひとりが「これから何処かへお出掛けですか」と日本語で話しかけてくる。やはり、東ドイツの企業に技術指導のため派遣されているのだそうだ。ゲバントハウスヘ行くことを話すと、「ちょうどそっちに行きますからお送りしましょう」といってくださる。外はまた激しい夕だちだ。ご厚意に甘えることにした。
彼の部下らしい東ドイツの青年2人と車に乗せてもらう。
この2人はこのケンと呼ばれる日本人を尊敬していてよくいうことをきく。そして、たどたどしいが日本語も知っている。
 私のために近道をする。「ケン、ポリツアイがくるよ」と青年のひとりが注意している。最初の日に会った日本人が現地の生活に馴染もうとせず、ひたすら日本を恋しがるタイプであったのに対し、この人は積極的に現地のひとびとと打ち解けていくタイプらしい。2人に共通することは私に親切なことである。5分ばかりで夕だちの降りしきるなかをゲバントハウスに着いた。

 順番は公平に

 入り口にはすでに6、7人が待っていた。雨か激しいので列をくずして軒下に入っている。7時きっかりに開門、 前売り券をもっている人から入れていく。その後でお客の入り具合をみながら3、4人ずつ、当日売りを待っている人を入れていく。列は崩れていたがみんなさすが行列のプロだけあって順番はよく覚えている。10分ぐらいたって「次のひと」と呼ぶと誰かが私の背中を押す。
 なかに入ると、紺の上っぱりをきたおじいさんの係長が切符売り場に連れていってくれる。切符は8マルク〓六百円)。プログラムは40円。ロビーは華やか。みな精一杯おしゃれをしてきている。尼さんたち、眼のみえないご主人の手をひいているおばあさんもいる。
 ワイン、ジュースも売っており、ワイン片手におしゃべりを楽しんでいる様子はウィーンのシュタートオーバーあたりと少しもかわらない。座席は完全にふさがっていた。

 聴きごたえのある演奏

 このケーラーというひと、日本ではレコードもでていないし、まったく初めてである。60過ぎの逞しいひとである。まず、ポロネーズ(英雄)のでだしでぴっりした。
おなかにどんとくるような達しい弾きかただ。もっとも、ゲバントハウスの音響効果もそうとうなものだ。
 しかし、なんといっても、彼はロシア人、しかもかなり武骨な感じのするひとだ。一方、ショパンはポーランド人、リストはハンガリーの農村の生まれ、そして、ここは東ドイツである。ショパンもパリの社交界にいるときのように気どってはいない、逞しいショパンである。そのせいか、プレリュードでは、あのやるせなさ、悩ましさが感じられない。リストでは、特にハンガリアンラプソディーで確かな技巧をみせていた。しかし、なんといっても力のこもった演奏でふかく感動した。

 ゲバントハウスの聴衆

 満員の聴衆は一曲ごとにわれるような拍手でこたえた。
また、演奏中も身をのりだし、からだで拍子をとりながらききいっている。
 メンデルスゾーンを初代の常任指揮者としているゲバントハウスオーケストラを長年にわたりささえてきたのは聴衆、すなわちライブツィヒの市民である。かれらはきわめて質の高い聴衆として自他ともに認めている。ここでうけたということは、おそらく演奏家冥利につきることであろう。アンコールに6曲ひいたことでもかれの感激がわかる。
このあたりから舞台と客席が完全に一体となっていた。最後のアンコールのとき、もう終わけだろうと思って廊下にでたらまたものすごい拍手なので引きかえしてみるとかれはステージから私をみつけて手真似で席に着くように合図する。私が座ると「ダンケ・シェーン」といってグリークをひきはじめた。
 ホールをでるとすでに雨はあがっていた。東ドイツは治安のよいところなので深夜の道をホテルまで歩いても、心配はない。この夜は興奮したのかなかなか寝つけなかった。

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東ドイツ紀行(1986年5月)・その5

 第  五  章

 国鉄の乗車券について

 日本でホテルの予約をしたときYさんが日程表をみて「国鉄の切符も手配しておきましょうか」といってくれたのでたのんでおいた。このときは多分、フリー切符か周遊券のようなものが用意してもらえるのだろうと思ったのだ。
ホテルのクーポン券を受け取るとき、このことをたずねるとあんまり要領を得た答えがなかったので、あっちにいけばわかるだろうとそのままにしておいた。
 前日、ホテルエルフルターホフのフロントで「ライゼビューローからです」という封筒を渡された。なかには普通切符が一枚と手紙がはいっていた。切符はエルフルトからドレスデン迄で、手紙には多分、「この切符でワイマールには途中下車できます。ドレスデンから先の切符はあちらで用意しております」。と書いてあったにちがいない。というのは、ドレスデンのホテルでもチェックインのときに同じような切符と手紙を渡されたから。こんなことなら現地についてから都度、買ってもよかったのだが。それにしても、ここのライゼビューローは仕事がしっかりしているしインターホテルとの連携プレーも見事だ。
 という訳でエルフルトから先は切符をいちいち買う必要はなくなった。

 ″親切″の街、ワイマール

 アイゼナッハから再びエルフルトを通って約50分程でワイマールに着いた。ここだけではないが列車の乗り降りはホームにいるひと、車内のひとの完全な助け合いですすめられる。荷物を受け取ってあげるひと、こどもを抱きとってあげるひと、お年寄りに手を貸してあげるひとなど。
 この駅は街から少し離れているのでバスを利用する。例によってバス券売り場さがし、乗り場さがしでうろうろする。ところが、この街のひとは特に親切で切符をくれるひと、これを断るとキオスクまでついてきて切符が買えるように世話をしてくれるひと、マルクトプラッツ方面に行くバスの乗場までついてきて、車内のひとに郵便局で降ろしてやってくれとたのんでくれるひと、バス停からマルクトプラッツまでついてきてくれるひとなどなど、とにかく親切なひとばかりで恐縮してしまう。

 ホテル エレフアント

 ホテルは駅に近いところをーーーといって予約してもらったが、ここだけは例外だ。このホテルは古い歴史のあるホテルだから。なにしろ、ゲーテの頃からのもので、リストやメンデルスゾーンも泊まったという。特に、ゲーテの晩年、ゲーテ先生に一度お目にかかりたいとヨーロッパ各地から当時の文化人が馬車でやってくる。そしてワイマールに着くとまず、マルクトプラッツのホテルエレファントに旅装を解いたという。インターホテルとしてのランクは最低の星3つ(エルフルターホフは星4つ、ライブツィヒのメルクワは星5つ)であるが、インテリアはとても趣味がよい。どうやらこの国でもホテルの星の数は設備で決まるようだ。例えばサウナやプールがあるとか。
 夕食はホテルのレストラン、ベルベデーレで。パイ皮包み焼きのとりのコンソメとシュリンプカクテルのような料理が運ばれてきた。本人は半分当てずっぽうで注文しているので、なんの料理か食べてみるまで確とわからない。ところがスープを一口すって「うむ、おぬし、なかなかやるな」と思った。なんとも上品な味である。さすが、古い文化を誇る街にはおいしい料理がある。食事代はビール、デザート、チップまで含めて3千円弱であった。

 ゲーテパークなど

 5月6日(火) 晴れときどきくもり、一時雨

 例の8マルクの朝食を済ませると、まずゲーテパークを訪れた。ホテルのすぐ裏手なのだが、街の喧操(もともと静かな街ではあるが)をまったく感じさせない公園だ。イルム川をはさんで緑の散歩道がつづいている。
川のむこうにはゲーテ山荘がある。日本の公園のようにビルやネオンがみえたりはしない。深山幽谷にいるようだ。そのうえ、ずいぶん大きな公園だ。

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 ここから住宅地を通って「ゲーテとシラーの墓」にいく。神社の鎮守の森のようにこの廟も森の奥深くにある。1824年から24年の歳月をかけて作られたという納骨堂にお参りする。朝早いためか他にだれも参詣人がいないので、うすら寒くて暗くしめっぼい地下の納骨室に一人で
降りていく。大きな石の棺がふたつ、少し間をおいて並んでいた。なんだか気味がわるくてすぐあがってきてしまった。入り口の小さなキオスクで絵はがきを買ったら「気持ちが悪かったでしょう」というようなことをいって、おばさんは肩をすぼめた。この墓地には、ワイマール大公や「ゲーテとの対話」の著者エッカーマンなどのお墓もあるそうだ。

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 ワイマールが今日あるのは、ここの歴代の領主によるところが大きいのではなかろうか。バッハを招聘したのも、史上最高のスカウトともいうべきゲーテをフランクフルトからはるばるひっばってきたのも、領主、皇太子という人たちであったとう。話は飛ぶがエステルハーツィー公がいなかったらハイドンもシュベルトも困ったにちがいない。現代の云術家はマスコミや大衆、社会主義体制というご主人に仕えているわけだが文学や芸術に理解ある殿様に仕えるのとどっちがしあわせであろうか。
 次に国民劇場にいく。ここで、にわかに大雨になった。ゲーテの像もシラーの像も放射能の雨にぬれている。
広場をぶらぶらしていたひとたちがいっせいに雨宿りをする。
大急ぎで子供にレインコートを着せているひともあった。
ヨーロッパのひとたちはわりに傘をささないと思っていたのに今日は違う。これは相当チェルノブイリを意識しているな、と思った。私も髪の毛がぬけるのは嫌なので郵便局に駆けこんだ。  
そして絵はがきを書くことにした。書きあがったハガキを窓口に持っていくと45ペーニッヒだといって料金表のヤーパンを指で示した。不思議だ。昨日、エルフルトの郵便局では55ペーニッヒだといったのに。
しかし、どちらもつつがなく日本へ着いていた。多分、料金改定があったのに、料金表を差し替えるのを忘れているのだろう。雨があがったらもうお昼近かった。ヘルダー教会だけをみてホテルをチェックアウトしワイマール駅にむかった。

 プーヘンヴアルト収容所に行かなかったわけ

 もうひとつのワイマールにおける必見の地、ナチスのユダヤ人収容所には行かなかった。時間がなかったからではない。今度の旅行はまったくの個人旅行なので、この6日間どこでなにをみるか、これをすべてきめるのは私自身なのだから。理由は恐ろしかったからだ。暴君ネロやキリシタン殉教の史跡ならばだいぶ風化しているからまだしも気が楽である。しかし、これは私が生まれてから後の、当時の同盟国でのなまなましいできごとだ。卑怯かもしれない。
でも、これに直面する勇気は私にはない。

 重々しい車内の雰囲気

 今日はライプツィヒ経由でドレスデンヘいく。列車がまた遅れた。お陰で「シュペート」という単語をおぼえた。イタリアヘいくと「キウゾ」という単語をおぼえるようなものだ。
ライプツィヒでドレスデン行きのホームにいってみると何やら異様な空気がただよっている。兵士、兵士、ものすごい人数の兵隊さんが広いホームを埋め尽くしてしる。そのうえ、まだ階段からあがってくる。皮の長靴をはいてカーキー色のユニホームをきて、おなじカーキー色のザックと毛布を背負っている。ホームの両側に5メーターおきぐらいに将校らしいひとが立って鋭い目つきであたりを見張っている。列車がはいってきた。今日の列車はコンパートメントでなくサロンカーである。なるべく兵隊さんたちの乗らない車両をさがして乗る。それでも、通路の反対側の席は将校で一杯だ。私の前の席もそうだ。いつもの癖で「この列車はドレスデンヘいきますよね」といった。向かいの軍人はガラスのような目でちらっとこっちをみたがなんにも答えなかった。シラッとした重曹しい空気が車内に漂った。隣の奥さんがあわてて「ええ、いきますよ」と答えた。私の隣の若い男の人は読みかけの新聞から目をあげない。ちらっとみたらどうやらチェッコの新聞らしい。いままでいつも車内を覆っていたほんわかムードはここにはない。将校のひとりがペーパーバックを読んでいる。ちらっとみるとロシア語だ。しかも、表紙には英語でCIAとかかれている。背筋に冷たいものが走った。と同時にすべてが理解できた。彼らはロシア兵なのだ。ドレスデンはポーランドにもチェコにも近い。おそらく、ポーランド国境警備に向かう一隊なのだろう。とかくもめごとの多いポーランドで何かあれば、ソ連と東ドイツの両側からはさみ打ちするつもりか。彼らはドレスデンのひとつ手前、レスデンノイシュタットで降りた。 
ざっく、ぎっく、ざっくという軍靴の昔が重いリズムを刻む。これから行くドレスデンが今度の戦争で壊滅的な被害をうけたときいているだけに、余計、この軍靴のリズムが耳に残った。

 明るいドレスデンの街

 すっかり、重々しい気分でドレスデンの駅をでた。ところが、この街はいままでみたエルフルト、アイゼナッハ、ワイマールなどと違って近代的な大都市だ。新前広場はびっくりするほど広い。土地の私有が認められていない国では市街地の再開発を邪魔するひともいないのであろう、利権屋さんとヤーサンのお陰で駅前のバスターミナルさえ作れないどこかの街とはちがう。駅前広場はすべて歩行者天国になっている。そして広場の両側にはネバ、バスタイ、ケーニッヒシュタイン、リリエンシュタインといったインターホテルや商店などの高層ビルが軒をならべている。 
今夜の宿はこのひとつ、リリエンシュタインだ。このところの暑さで広場ではアイスクリーム屋さんが大繁盛だ。

 ライゼビューローに行かされる

 リリインシュタインのフロントにクーポン券を渡すとしばらく待たされた。やがて主任らしい女性が現れて「最初のホテルで間違って(正)の方をはぎとってしまった。次のエレフアントでもそのことは知っていたがそのままにしていた。あなたの落ち度ではないけれどこのままでは、これから先も行くさきざきで問題になる。ここのライゼビューローでクーポン券の再発行をうけたほうがいい。あなたはこれからすぐ行くべきです。ライゼビューローには私から電話で事情を説明しておきます。荷物はここのクロークで預かりましょう。それから、ライゼビューローヘの道順は、この地図の通りです」。と分かりやすい英語で説明した。自分の落ち度でもないのに大事な時間をこんなことにとられるのは不本意だが、この主任さんの対応は資本主義国のレベルからみてもまずまずなので素直に指示どうリライゼビューローに行くことにした。
 ホテルから5分ほどでライゼビューローに着いた。ここでも中年の女性がにこやかに待っていた。確かに話は通じていて5分も待つとタイプで打たれたばかりの書類ができあがった。かくして、ホテルリリエンシュタインに無事チェックインできた。
このホテルはバスつきの部屋がない。おまけに相当な安普請でべ二アの床板が反っている。おそらく急激なホテル不足に対処すべく突貫工事で作ったに違いない。

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 エルベとの対話

 ホテルに荷物を置くと街へでた。旧市街を通ってエルベのプブリュールのテラスにいく。1945年の爆撃で徹底的に破壊されたというのに、いまやほぼ完全に昔の町並みが復元されている。ノイマルクトにある瓦礫の山だけが41年前を物語っている。
 テラスに腰をおろしてあたりを見回すと河畔にはバロック建築が重厚な姿でならんでいるし、遊歩道にはこれも由緒ありそうな彫刻が並んでいる。暑い日だったが河面をふく風は心地よい。傾きかかった陽がエルベに反射している。
すべて明るい風景なのに、私の心は重く沈んでいた。耳の奥にはさっき、車内できいたあの、ざっく、ぎっくという軍靴の音が残っている。
ドレスデンはたしかに復興した。
あの瓦礫の山だけを残して。
しかし、ここから幾らも離れていない国境地帯には、ソ連、東ドイツの大部隊が駐屯している。彼らは現代の防人だ。本当に、エルベの水が再び血に染まることはないのであろうか。私はすっかり気がめいってしまった。
 センパー美術館でラファエロのシスチンのマドンナをみた。が、これも私の気持ちを引き立てたりにしなかった。
十字教会も市役所もみる気がしなかった。アンデルセンやゲーテが賛美した、北のフィレンツェといわれたドレスデンは見事に蘇っている。この市民たちの驚くべき根気と努力には深く敬意を表したい。でもこれをみないという私の勝手を許してもらいたい。
 まだ、昼間のように明るいプラガ一通りをとぼとぼと引き返した。そしてホテルのレストランで夕食をして早めに寝てしまった。

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2008.08.29

東ドイツ紀行(1986年5月)・その4

  第 四 章

  ホテルエルフルターホフ

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 駅の前は市民のいこいの場になっていて気のきいた街路灯とベンチがある。おりしも、仕事のひけどき(東ドイツでは終業時刻は4時)でたくさんの市民がこの広場でぶらぶらしていた。  
ホテルは広場をはさんで駅のまん前にある。

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フロントでは若い娘さんがにこやかに応対してくれた。英語もひととおり話せるようだ。
 日本から持ってきたバウチャーを渡しパスポートをみせて部屋の鍵と朝食のクーポンを受け取れば手続きは完了する。
 外観はあまり目立たないが、なかはヨーロッパ風クラシック調で家具、調度のたぐいもなかなかシック、部屋も広い。特にバスルームは我が国のビジネスホテルのシングルルームそのものよりもはるかに大きい。さすがドイツでバスルームのタイルはピッカピッカだ。ただひとつ、ここが東欧であることを物語っているのはトイレットペイパーである。ただし、ソ連のよりはややましだ。もっとも、地球的視野で森林資源の保護を考えれば100%消耗品のペーパーに贅沢する日本こそ責められるべきかもしれない。

 夕食は駅のセルフレストランで

 日は無理をせず早寝することーーーという方針により夕食は一番近い駅のレストランで済ませることにした。駅にはいくつかレストランがあるらしいがまず手始めにセルフのレストランに行ってみた。隅のほうで観察しているとどうやら先に食券を買い、それぞれのコーナーヘいって食券と引き換えに料理をもらってくる仕組みらしいということがわかった。そこでビールと定食の食券を買うことにして食券売り場の行列に加わった。ここのお客は若い人、年寄り、外国人、とくにAA諸国の人が目だつ。要するに、あまりお金のある人のくるところではないようだ。私の番がきて壁に貼ってあるメニューを指で示すと、白衣をきたレジのおっさんがレシートをくれた。ただし定食のほうはカルトなんとかとヴアルムなんとかとどっちが欲しいのかとたずねられた。多分、コールド、ウオームのどちらかが選べるのだろうと見当をつけてヴアルムといった。 
 ビールは50円、定食は200円ちょっとだった。ビールはタンクの蛇口から小ジョッキに一杯注いでくれる。定食はお皿に盛り付けてくれる。パンは2つでも3つでも好きなだけ持っていっていいらしい。これらをナイフ、フォークと一緒にお盆に乗せて空いているテーブルに持って行って食べる仕組み。早くいえば西側のセルフの店のまったくかわりない。
 みた目には少なくともあまり食欲をそそる料理ではない、盛り付けもいろどりもさえない。その上、フォーク、ナイフはペらペらでステーキなんか切ったら折れそうなしろものだ。量ばかりはやたらと多い。ところが食べてみたらこれが意外に美味しいのである。ハンバーグのきのこソースかけはきのこの香りがよくきいたいい味のソースがかかっていたし、じゃがいもと玉ねぎのいためものもしっかり味がついていておいしい。キャベツとにんじんの酢づけもさっばりしていていい。気がつくと私のお皿のうえはからになっていた。相席の労働者風のおじいさんがしきりになにか話しかけてくれるのだが、いかんせんドイツ語がわからないので「ゼァ、グート」ぐらいしか相槌がうてない。

 よく写る西のテレビ

 ホテルにもどるとまだ7時だ。部屋にあったテレビをつけてみた。ニュースをやっている。キャスターは熟年の女性でいかにもオバチャンとけった感じのひとだがたんたんと語っている。チェルノブイリという言葉かきこえてくる。画面ではヨーロッパの地図に各地で測定された放射能の価が示されている。言葉はわからなくても何の話題かおよそ見当がつく。これは西側からきている電波なのである。ほかのチャンネルにかえてみた。こちらは東ドイツの放送である。が、さっきの西からの放送のほうが鮮明である。西のニュースは、チェルノブイリの話題につづいて東京サミットの話をしていた。天気予報では東西両ドイツの予報を公平に報じていた。             
 先刻、車内で会ったエンジニアさんの話では東部の一部地域を除いた大部分の東ドイツで西のテレビ放送が視聴できるとのこと。特に西部地域では東ドイツの放送よりも鮮明に見えるといっていたがその通りであった。なんでも、西ベルリンに電波塔がありそこから強力な電波を送りだしているのだそうだ。当然、東ドイツ国民はこの西の番組をみている。だから、チェルノブイリのこともよく知っている。もちろん、チェコでもハンガリーでも西のテレビ番組は視聴できる。
 しかし、西ベルリンのような飛地があるわけではないので、西との国境から遠いところまでは電波は届かない。そのうえ、すべての国民がドイツ語がわかるわけでもない。これをみても、東ドイツが東欧諸国のなかでも特異な立場にあるのがよくわかる。              
 エンジニアさんもいっていたが東ドイツのひとたちはチェルノブイリのことをひそかに心配しているらしい。しかしポーランドのように声をあげてソ連を非難することはしない。
 電波は国境を越える。壁があっても地雷が埋めてあっても。ひとむかし前とは違い政府が情報操作をすることは難しくなってきている。なにもかにも知っていながらこの国のひとは今後もだまっているのだろうか。そんなことを考えているうちに、いつしか眠ってしまった。

 合理的な朝食クーポン券システム

 5月5日(月)晴れ、日中とても暑い

 さわやかにめざめた。支度をすませると早速、開店早々の食堂に急ぐ。朝の早いこの国ではどこのホテルでも6時から食堂があいていて私のような朝型の人間にはおお助かりである。さすが、まだ誰もきていない。若いウエイトレスが手振りでお皿に好きなのものをとってくるようにいっている。テーブルのうえには、チーズ、生ハム、鰊の酢漬け、ヨーグルト、バター、ジャムなどがこぎれいに並んでいる。
 これだけならどこの国にもあるビュッフェスタイル、日本式にいえばバイキングスタイルの朝食である。ここのユニークなところは、すべての料理に値札が付いていることである。一皿ごとにではない。ハム、鰊の一切れづつに、バターのひとかけらごとに、である。好きなものをとったらレジにもっていって計算をしてもらい8マルク以内なら朝食クーポン券を渡すだけで可、オーバーしたときは超過分をキャッシュで支払う。コーヒーだけはレジでその旨いっておけばあとから席までもってきてくれる。大概の料理は1マルクぐらいなので8マルクあればほぼ、欲しいものはそろう。コーヒーだけは高くてポット一杯2.7マルクもした。ただしここのコーヒーはモスクワのとは違って本当のコーヒーの味がする。パンは白パンではなく全粒粉を使ったやや黒いパンである。しかし、香ばしくてかみしめると味のあるパンだ。
 日本のホテルのパーティー会場などでお皿に残されたたくさんの残り物をみていつも気になっていた私はこれをみてむしろすっとした。ここのホテルではお皿にものを残して席を立つひとはいない。残ったパンにバターをぬりハムをはさんで持ってかえるひと、ポットに残ったコーヒーをジャーに入れて行くひとはたくさんいたし、自分でも同じことをやった。ピクニックのお弁当になるのだ。一旦支払ったあとはいわば自分が買上げたものなので、せいせいどうどうとやっている。(逆に残せば非難される?)。
 なお、ドイツの食べ物はまずいときいていたが決してそうではない。生ハム、魚の酢づけなどとくにおいしい。あれだけの文化を築いた国なのだからおいしい料理がないわけはない。なにかの本でバルト海の魚料理、ロストックの生ハムが有名なことを読んだことがある。戦後の混乱期を経てまたこれが復活したのではなかろうか。しかし地元のひとたちがいつもこんなものを味わっているわけではなく外人観光客の泊まるインターホテルに優先的に割り当てられているにちがいない。

 エルフルトの街を歩く

 朝のうちに街を歩いてみる。ちょうど通勤ラッシュで駅前はひとで一杯だ。みんな、こざっぱりした格好で出勤してくるがなぜかこの国の女性はハンドバッグを持っていない。袋をぶらさげているのだ。商品が十分出回っていないからバッグが買えないからか、あるいは東欧圏特有の買いもの事情、買いたいものをみつけたときにただちに買えるよう買い物袋をもって歩く習慣になっているからか、共稼ぎのため帰りに夕食の材料を買って帰るためか。
 エルフルトはハンザ同盟都市として過去栄えた街でありその面影を今もやどしている。壮大な大聖堂が街の西側に聾えたっている。ドーム広場ではおりしも花市をやっていた。しかし、なんとも盛り上がらない市ではある。いわゆる市につきものの熱気か感じられないのだ。やっぱり市というものは社会主義経済とはなじまないものなのであろうか。クレーマ一橋は朝もやのなかにひっそりとたたずんでいた。橋といっても通りのようなもので道の両側には商店もある。フィレンツェのベッキオ橋のような構造だ。ただし橋から受ける感じはまったく違う。これはイタリアとドイツの違いであり社全体制の違いであるのかも知れない。
 あまり遅くなってもいけないので、ホテルまで市電でもどることにする。切符をあらかじめ買ってから乗るらしいのだがその近くには切符を売っていそうなところがない。
 私がきょろきょろしていると、うば車に赤ちゃんを乗せた若い女のひとがそっと切符を差し出した。あわててお金をもって追いかけたがすでに反対側の電車に乗っていってしまったあとだった。電車に乗ると自分で切符を自動刻印機にいれてガシャツとやる、これは他のヨーロッパ諸国とおなじである。切符は6枚綴り50円であった。

 タクシーはなかなか来ない

 ホテルをチェックアウトして駅にいく。今日はこれからアイゼナッハ、ワルトプルグ城にいくのだ。国鉄の乗車券は日本とおなじように自動販売機で買う。この自動販売機、自分の行き先の駅の4桁のコードを地図でみつけてテンキーでたたくと運賃がディスプレーに表示される。指示きれたお金をいれると切符がでてくるというなかなか面倒なものだ。日本のように出発駅から280円区間というような考え方をすればずいぶん簡単なのに。
エルフルトからアイゼナッハまでは50分程。駅のコインロッカーに荷物をあずけて身軽になる。ワルトブルグ城までは駅から40分、坂道をのほって行くのだという。往復あるくのでは大変なので片道はタクシーに乗ることにした。それにこの国のタクシーにも一度乗ってみたいし。
 タクシー乗り場はすぐ見つかった。3、4人が並んでいるだけだ。長くても15分も待っていれば乗れると思った。ところが、一台来たあと20分ぐらいまったくやって来ない。並んでいる市民には一向いらいらしている様子はない。
いつもこんなものなのだろう。街には乗用車もあまりみかけない。たまにみかけるとやっぱりソ連製のラダーが多く、チェコ製のシコダがそれに次ぐ。かの有名なワルトブルグは一体どこを走っているのだろう。
 20分置きに一台ずつしか来ないので私の番がきたのは並んでから70分近くたった頃だった。まだまだこの国にはタクシーは少ないのであろう。「シュロスワルトブルグ」というとタクシーは走りだした。車の少ないこの国では交通渋滞はめったにない。5、6分もすると車は緑したたる山道にはいった。お城より500メートル程手前でタクシーは止まった。ここから先は一般の車は入れないようだ。環境保全のためだろうか。タクシー代は400円ぐらい、チップをすこしのせて渡すと「グーテライゼ」といってドアを開けてくれた。

  美しい自然、美しいお城

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 ここから山道を15分ほど歩くとお城につく。いま、まさに、シェーネマイでありチューリンゲンの山やまは新緑が目にしみるような美しさだ。小鳥の声も楽しげだ。美しいのは自然ばかりではない。まず、観光地につきもののゴミがほとんど目につかない。それから風景美をめちゃめちゃにする、あの俗悪な広告、看板のたぐいがない。
 ワルトプルグ城は小高い山のうえに建てられているのでここからの眺めはすばらしい。チューリンゲンの野山が浅みどりに包まれて拙い筆ではとうてい表現できないほど美しかった。私はいつまでもあかずにチューリンゲンの春を満喫していた。これをみただけでもはるばる東ドイツまでやってきた値打ちはある。
 お城は900年以上もまえにたてられたもので、どっしりとしたダイナミックな山城だ。いかにもドイツらしい重量感が感じられる。何度も増改築をかさねているらしいが、そういう不自然さはない。2時から専門のガイドによる案内があるというので入場券を買って入り口にならんだ。

 ガイド付きのお城見物

 2時びったりにガイドが現れた。ジーパンにティーシャツ、その上にヤッケをはおっている。30すぎのやせたインテリ風の男のひとである。切符をみせると「ダンケシェーン」といってなかに案内してくれた。30人ほどの見物客は家族ずれ、老人クラブなど雑多なひとびとであるがみんな至極お行儀がよい。どうやら外国人は私だけらしい。
案内は当然のことながらすべてドイツ語で、これも当然のことながら私にはさっばりわからない。みんな、熱心にきいている。ときどきげらげら笑っているのであまり堅い話ばかりでもなさそだ。
 リヒヤルトワグナーの「タンホイザー」の舞台となったモザイクの間、マルチンルッターが新約聖書のドイツ語訳を完成させたルッターの居間、壁には、歌合戦やエリザベート伝説を題材にしたフレスコ画がえがかれている。部屋数だけでも大変なもので、これをひとつひとつ丁寧に案内してくれる。とに角、奥から中世の騎士が現れても、吟遊詩人がたて琴をかかえてでてきても一寸もおかしくない雰囲気のお城だ。一言葉なんかわからなくってもすこしも退屈しない。

 行きとどいた市民社会システム

 案内が始まって5分ぐらいたった頃である。老人クラブのおばあさんのひとりがその場にふらふらとしやがみこんでしまった。顔色が悪い。このところの暑さで暑気当たりでもしたのであろうか。おばあさんには悪いけどこんな場合この国のひとびとがどう対応するかちょっと興味があった。まず、すぐ近くにいた若い男性と家族ずれのパパがおばあさんを抱き抱えようとした。ところがうまくいかない。
 やや重すぎるのである。すぐ、もうひとり手を貸した。案内人はただちに話をやめてこの一隊を誘導して事務室に連れていく。若い女性がおばあさんの荷物をもってついていく。ちょうど、足もとにおばあさんの靴がころがってきたのでそれをもって私もあとにつづいた。おばあさんの仲間のひとりもあとを追う。事務室の脇に小さい部屋があって、ついたての奥にべッドがひとつある。清潔なシーツで覆われており、花柄の毛布がのっている。みんなでおばあさんをここにねかせた。案内人は事務所のひとにおばあさんの世話を引き継ぐとおばあさんの仲間だけをそこに残してみんなとお城のなかにもどった。そしてなにごともなかったようにフレスコ画の説明をつづけた。
 なるほど!と感心した。高齢者にとって住みよい社会とは、行きとどいた福祉とは、単に老齢年金が多いとか、医療費の心配がいらないとかいうことだけが条件ではないのではなかろうか。(当然それは必要条件ではあるが)。市民全体で自然な形でこういう人をサポートしていくこと、
これが伴ってはじめていえることだとつくづくおもった。
 もうひとつ、わが国の松島や二条城にもこの見学者用の休養室のような救護施設が整備されているのであろうか。
 あらためて考えさせられてしまった。

    帰路はハイキングで

 1時間たっぷりのお城見物をおえて、帰りはみどりの山道をぶらぶらと駅まで歩いた。樹の幹にⅩ印がついていてそれが道しるべになっている。登ってくるひとに行き合うと笑顔で「グーテンターク」と挨拶をする、そのひとなつこさがなんともいえない。
 途中、バッハハウスに寄る。ヨハン・セバスチャン・バッハの生家の隣の家で当時の楽器やバッハの手書きの楽譜などが展示してある。晩春の花にいろどられた庭もたのしかった。
 17時05分アイゼナッハ発で今夜の宿泊地ワイマールヘ向かう。

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東ドイツ紀行(1986年5月)・その3

 第 三 章

  ガイガ一計数器の待つフランクフルト空港

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 タラップが取り付けられ、ドアがあき、乗客が降りはじめた。ところがいっこうに行列が先に進まない。私はいらいらしていた。一日一本しかない東ドイツ行きの列車は11時57分フランクフルト中央駅を発車する。乗り遅れたときは空港にとってかえし、パンナムで空路西ベルリンヘ行き、東ベルリン経由でエルフルトヘ行かねばならない。こうなるとエルフルトに着くのは夜8時を過ぎてしまう。
 2~3人ずつ降りては2~3分待つというようなテンポで行列はいっこうにはかどらない。それでも15分ほどでやっとタラップに出られた。ここでやっと待たせられた理由がわかった。アイロンのような器具を持った空港係員が乗客ひとりひとりのからだを調べている。我々は汚染地域のモスクワから到着したので放射能のチェックを受けなければ入国できないのだそうだ。私の順番がくると、にこにこしながら入念に検査し「オーライト」と言って空港バスのほうをさした。  
 あまり緊張感はなくお客も係員もふざけたりしていた。結局、全員異常がなかったらしくその場に残され人はいなかった。

 効率的なフランクフルトの交通システム

 我々がターミナルビルにはいったのは11時10分を少し過ぎた頃だった。もう駄目だろう、でも行くだけはいってみようと入国手続きを急いだ。ところが、パスポートコントロールはすいすいと通過でき、バッゲージクレイムにはすでに荷物がでていた。国電の空港地下駅はロビーの真下、電車は15分に一本ずつ出ていて、中央駅までは、わずか15分、駅ではピクトグラムにしたがって進むとすぐ出札窓口がみつかった。トマスクックの時刻表のなかのERFURTというところに赤ペンでアンダーラインをひいてみせると切符はすぐ買えた。ホームの表示も分かりやすくめざす列車もすぐみつかった。列車は予想していたよりずっと混雑していた。なんとかあいているコンパートメントをみつけてすわって時計をみるとまだ発車まで6分あった。これぞドイツ的効率主義である。

 車内で親切な日本人に会う

 荷物を網棚にあげてほっと一息ついていると、「ああ、あいているとこがあるワ」という、まぎれもない日本語、しかも、関西弁が耳にとびこんできた。と同時にダークスーツの中年の二人づれの日本人がコンパートメントに入ってきた。彼らはしげしげと私をみて「へえ、おたく日本の方ですか。どこ行かはるんですか。へえ、東ドイツヘお一人で。そやけどだいぶ変わったかたですな。まあ、おたくもつれがあってよかったワ。ひとりやったら心細いでしょう。」と一息でしゃべった。きけば、彼らはエンジニアで技術提携しているライプツィヒ郊外の東ドイツの会社(ここでは人民所有企業というらしい)に技術指導のために滞在している由。典型的な日本のサラリーマンでゴルフやマージャン、パチンコ、縄のれんに縁のないこの国での暮らしは忍の一字のようだ。唯一の楽しみはアパートで乏しい材料をやりくりして日本食をつくって食べることにあるという。その日はたまたまメーデーで会社が三日間休みだったので西の空気を吸いに西ドイツのバーデンバーデンに出掛けた帰りとのこと。しかしわざわざ西に行ったのにぜんぜん日本人に会えなかったとがっかりしてこの列車に乗ったところ私がいたーーーということらしい。

 列車は国境を越える

 発車して一時間半ほどたつと草原のむこうに牧場の柵にしてはちょっと高いかなと思うようなフェンスがえんえんとつづいているのがみえた。エンジニアさんたちの話ではこれぞ東との国境とのこと。しばらくして西ドイツの係官が巡ってきて形式的にパスポートをみていった。
 ベブラをでてほんのわずかでまた列車がとまった。外をみると駅で、ホームにはお稲荷さんの鳥居の幟のように国旗がやたらめったらたっていた。これをみれば東ドイツに入ったということはよほどぼんやりしていてもわかる。しかし、車内には予想していたほどの緊張感はない。やがて各車両二人ずつ係官が乗ってきて車両の両側から挟み打ちにするようにパスポートチェックをはじめた。ちょうど、駅弁売りのようにアタッシュケースのようなものを90度ひろげて首からぶらさげている。どうやら中にはスタンプ、スタンプパッド、ボールペンなど文房具がはいっているらしい。なるほど、これは名案だ。係官は特に愛想がいいということもないが冷たい感じでもなくまあわが成田の出入国管理官殿とかわりない。エンジニアさんたちも、おなじコンパートメントの東ドイツの老夫婦もつつがなくチェックをおえた。税関らしき人はついに現れなかった。念のためほかの車両にもいってみたが私のみた範囲では荷物を調べられている人はいなかった。ただ網棚にあった西ドイツの新聞、雑誌などは持っていったようだ。(活字の持ち込みは禁じられている)。

 東ドイツという国はない

 いままで、東ドイツ、東ドイツといっていたが厳密にいうと東ドイツという国名は存在しない。この国は正確にはドイツ民主共和国と呼ぶのだそうだ。ちなみに西ドイツはドイツ連邦共和国というらしい。なんだか民主というと西側のイメージが強いし、連邦共和国というとソ連みたいでなんとなくまぎらわしい。やっぱり東ドイツのほうが分かりやすいのでこれからもそう呼ぶことにしたい。
 ついでに、東ベルリンという街の名前も正しくない。これは「ドイツ民主共和国の首都であるベルリン」と呼ぶのが正解。落語の「じゅげむ」みたいでとても付き合いきれない。
 更に、東ドイツを東欧諸国とするのも異論があるようだ。東ドイツ国鉄(ライヒエスバーンという極めて帝国主義的な呼びかたをする)の食堂車や駅の構内食堂を経営している、いわばこちらの日本食堂にあたる企業をミトローパというがここは地理的にも文化の面からもまさに、中欧であって東欧ではない。例えば、アイゼナッハは西経10度すれすれに位置している。ミュンヒエンやニュールンベルグ、イタリアの大部分より西に当たる。ここが東欧だとするとウィーンなどは極東といわねばならなくなる。
 文化的にも音楽、哲学などヨーロッパ文化の真髄がここから生まれており、まさにヨーロッパのなかのヨーロッパといえる。東欧というのは単に政治的な区分でしかない。しかし、この区分が今日のヨーロッパではなにものにも替えがたい極めて重い意味をもっているのでやむを得ず東欧と呼ばざるを得ない。

 両替とため息

 他の東欧諸国と同じようにここでも車内を銀行の人が巡って両替をしてくれる。もちろん、西ドイツマルクと一対一の公定価格である。銀行屋さんを呼び止めて、六日間、滞在するのだからどっちみち三方円は要るだろうと四百マルクを差し出した。すると、かたずをのんで事態を見守っていた東ドイツの老夫婦から悲鳴ともため息ともつかぬ声がもれた。エンジニアさんの通訳によると「大事な西のお金をそんなにあっさりと大量に両替するものではない。すこしずつ、足りなくなった都度両替をすべきだ」といっているとのこと。お気持ちは有り難いが私にも私の事情がある。
 わずか六日間であれもこれもみたい私には両替についやす時間こそもったいない。しかし、せっかくのご意見なので百マルクヘらして三百マルクにした。二万円ちょっとである。それでもまだ老夫婦は不満そうであった。この三百マルクがどのくらい使いでがあるかこの時点での私は知らない。
 なお、東ドイツの名誉のために敢えて付言すると滞在中に一度もいわゆる闇ドル買いに声をかけられたことはなかった。

 コンパートメントのなかで

 エンジニアさんたちと一緒だったのでとても助かった。
 まず、東ドイツの老夫婦の通訳をしてくれたこと、それから、旅行者ではなかなかわからない東ドイツ事情、とくに日本人が知りたいと思うようなことをいろいろきかせてくれたこと、例えこの囲の生活を楽しんでいない彼らの偏見がまじっていたにしてもやっぱりナマの生活者の実感は貴重である。以下の記録のなかで出てくるこの国の実情の多くのなかにはこのとききいたこともすくなくない。
 まず、老夫婦のことである。東ドイツでは男は六十五才、女は六十才になると西側への旅行が認められる。おそらくこの老夫婦もそのくちであろう。西へ必死で出たがるのは主として中年で老人連中は西に遊びにいってもまず、もどってくる。万一、もどってこなくても国家にとっての損失はない。働かないで年金をもらっている彼らは国家にとっての、いわば扶養家族なのだから。  
 ただし、この国の外国為替管理は厳しいので西のマルクに替えられるのは一日わずか二千円程度とのこと。したがって万事物価の高い西では民宿に泊まることもままならない。やっぱり西に親戚でもなければ出掛けられないというのが実情のようだ。 この老夫婦はデュッセルドルフヘいった帰りとのこと。おじいさんは紙袋からウイスキーのビンをとりだしてはチビリチビリと飲む。そしてビンを光線に透かして「ああ、もうこんなに減っちゃった」というように笑っておばあさんのほうをみる。おばあさんは袋からバナナをとりだしておじいさんと半分ずつ食べる。そして残りをかぞえる。(5つ残っていた)。コメコン経済圏ではバナナの生産が需要を下回っているので東ドイツ国民もいつでもバナナが買えるわけではない。街に出回るのはせいぜいクリスマスとメーデーぐらいとのこと。すなわちバナナは貴重品なのである。そのくせ、西ではバナナは至って安い。だから西へ行った人はよくおみやげにバナナを買ってくるのだそうだ。
 おひとついかがですかとすすめてくれたがこれをきいたあとではとても受け取れない。「おなかが一杯なので」と断った。
 また、おばあさんは網棚のカバンからお孫さんに頼まれて買ってきたというジーパンを出してみせてくれた。東ドイツでももちろん、ジーパンは売っている。しかし、お孫さんの意見では西の製品に較べてなんとなくダサイのだそうである。「孫が気にいってくれるといいのだけど」といいながらおばあさんは荷物を網棚にもどした。

 チューリンゲンの森

 40分ほどで列車は出発した。トンネルをでると窓の外は新緑の目にしみるような森である。まさにシューネマイである。おじいさんとおばあさんはうなづきあって「さあ、チューリンゲンだよ」といっているらしい。この土地の人達のチューリンゲンに対するおもいいれは激しいそうだ。列車はアイゼナッハに止まった。そとは雷鳴がして大粒の雨がふっている。今日は格別暑いので夕だちがきたのだろう。おじいさんは「この土地では摂氏27度を越すとかならず夕だちがくるのだ」という。すぐ話のなかに数字がでてくるところをみるとこのおじいさん、まぎれもなくドイツ人である。
 アイゼナッハは昔から軽井沢のように避暑地として知られたところだぞうだ。
 おじいさん、おばあさんとだんだんうちとけてきたころ、列車は今夜の宿泊地のエルフルトに定刻より10分遅れて16時24分に到着した。

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2008.08.28

東ドイツ紀行(1986年5月)・その2

 第 二 章

 さて、いよいよ出発

 5月3日(土)くもり、ときどき雨、うすら寒い

 長かった前奏曲もようやく終わり、いよいよ出発の日となった。心も軽く、荷物も軽く(折畳みナイロンバッグには洗面具、最小限の着替え、ショルダーバッグにはカメラと資料、合わせて2・5kg)家をでる。母が西鎌倉の駅まで送ってくれた。大船からは横須賀線・総武線直通の成田行き。
 成田空港27番ゲイトには、13時発SU588便のイリユーシン62Mが待っていた。例の写真でお山馴染みの尾翼の下にエンジンを4つ付けた機体である。はじめて乗ってみたが内装はボーイングなどとほぼ同じようなものだ。
 なかは、20%ぐらいの入りでがらんとしている。チェルノブイリ事故の影響であろう。さて、機内食だが材料は成田仕込みながらメニューはロシア風。やっぱりチキンカツがでた。チキンフロートと異名をとるアエロフロートらしくていいのだがメニューに「キエフ風」とあるのが、時節柄一寸気になった。感心なことに、食事のときはかならずワインが一杯だけつく。
 お酒のお替わり有料、映画・イヤホーンのサービスはないが、大部分のお客は、そんなサービスより運賃の安いのを望んでいるはずだ。少なくとも私はそうだ。なにしろ、今日はすいているので3つぐらいの座席を占領してのびのびと横になれた。かくして、モスクワ時間の17時30分、白樺の新線が目に染みるシェレメチエポ空港についた。

 シェレメチエボ空港の忍耐

 今晩はここでトランジット泊ということになっている。どこの空港でも、翌朝まで乗り継ぎ便がないときはホテル代など先方もちで泊めてくれるらしい。この制度を利用してヨーロッパの帰途かならずシンガポールやバンコクに寄り道して見聞を広めてくる人もいるとか。特に、アエロフロートは、アジアとヨーロッパの中継地としてモスクワトランジット泊を売り物にしているようだ。
 ターミナルビルの案内標識にしたがって2階にあがってみるとまだ誰も来ていなかった。やがてぞろぞろ30人以上も集まってきた。結局、乗客のほとんどがトランジットなのだ。ここには椅子のたぐいがないので立ったままで待つ。30分程してようやく制服の係員がやってきた。ヴォリュームのあるカラダが踵のやたらに細いハイヒールに辛うじて支えられているのが印象的なおばちゃんだ。
 何かいっている。どうやら行列の先頭は誰かときいている様子。本当は私が一番なのだがこんな場面では、奥ゆかしく人に先を譲り、何をどうするのかをよく確かめてからそれにしたがうのが無難なことは何度も経験ずみである。
 そこでわざと後ろのほうへ並んだ。
 ここでは、航空券を見せて乗り継ぎ客であることを確認する。次に、別のカウンターで仮ビザをもらってパスポートを預ける。(出入国管理の厳しいソ連でもトランジット泊にはビザを用意していく必要はない)。最後に翌日の出発便ごとに名前を確認してから空港ビルのそとに待機している送迎バスにのせてもらうことになる。しかし喜んではいけない。バスは他の便のお客も待つのである。
 結局、われわれを乗せたバスが空港を離れたのは、実に着陸の3時間後であった。これは、到着客名簿、出発客名簿、宿泊客名簿がすべて手書きなので記入漏れ、記入相違が起きやすいことや、予定を変更したお客などイレギュラーが発生したとき問題の分を一括して処理しようとせず都度、中断して別室の上司にお伺いをたてにいってしまうなど、一言でいえば能率が悪いのである。また、手続きの説明をまえもってすることもしない。(英語は分かるくせに)。

 空港ホテルに泊まる

 ホテルは空港の敷地のすぐ外に聾えたっている。部屋はすべてバス、トイレつきのツイン。ただし、なかは相当安普請で床のリノリユームはぺこぺこしている。
 ホテルに着くと今度は部屋割りの番だ。これがまた難物である。宿泊客には私のような一人旅や、三人づれもすくなくない。ところが、部屋はすべてツインである。私は当然、日本人同士一緒の部屋にするものだとおもっていた。
 ところが、フロント嬢は国籍に関係なく名簿の順にどんどん部屋割りをはじめた。バスで一緒だったベルリンに留学するというお茶の水の学生さんが初めての旅で心細そうにしていたので同室にしてほしいと申し出たが即座に「ノウ」といわれた。
 私の相客は中年のドイツ人でシュツットガルトの住人。ルクセンブルグ経由モスクワに来た由。明日、ここからソマリアのモガジシオヘ行くそうだ。(遠まわりでもこのルートが一番安いとのこと)。とってもいい人でお風呂に先に入るように勧めてくれたりいろいろと気を遭ってくれた。
 さすがに疲れたので夕食もとらずベットにはいった。(後できいた話ではぬかしても決して後悔するような内容ではなかった由)。トランジット泊のときは機内預けの荷物がでないということを知らなかったので今・夜はパジャマもハブラシもない。まあいいや。一晩だもの。

 モスクワの朝

 5月4日(日)晴れ、午後暑くなる

 ピーピーというものすごいブザーの昔で目がさめた。飛行機の中とは違ってやっぱりぐっすり眠れる。隣のドイツ人が「あんたを起こしにきたらしいわよ」という。あわてて着替えて廊下にでてみると「支度をしてロビーに集合せよ」とのこと。ところでわざわざ起こしにこなくてもモーニングコールをやればよさそうなものだが、このホテルには電話がないのだ。内線だけではない。外線もないらしい。フロントの掲示に「当ホテルには電話はありません。緊急に外部と連絡が必要な際はテレックスをご利用ください。この場合、費用は当ホテルで負担します」。という意味のことがかいてある。首都の空港ホテルに電話かないのはこの国だけではあるまいか。なんといってもユニークな国である。
 時計をみるとまだ6時20分だ。私の乗るフランクフルト行きは9時45分発のはず。なんだってこんなに早く起こすんだろう。いや待てよ、昨日、手続きに3時間かかっているんだから今日も同じくらいはかかるのだろうと一人で納得した。

 空港レストランの朝食

 今日は手続きがスムーズにいって8時ごろには完了した。
 さて、朝ごはんはどこで食べるのかなとおもっているとみんなぞろぞろ空港レストランに入っていく。例によってなんの説明も指示もない。ゆうに百人はすわれるこのレストランのテーブルの上は前の人たちの食べあとがそのままで従業員はだれもいない。30分まってもいっこうに現れないのでアメリカ人の男の子が捜しにいった。彼の報告によると奥の調理場で自分たちの朝ごはんをたべているという。さらに、30分ぐらいしてやっと現れ、ゆうゆうたるテンポでかたづけはじめた。メニューは、半熟卵、ハム、チーズ、トースト、ジャム、バター、コーヒーと堂々たるもので味もなかなかよろしい。ただ、コーヒーだけは本物という説と何とかいう樹のねっこを煎じた代用品という説と両論あった。

 トランジット仲間

 昨日、今日と長い待ち時間を一緒に過ごしたトランジット仲間とすっかり親しくなった。学生など若い人が多く、イタリア、フランス、ドイツ、スイス、デンマークなどあちこちからきている。運賃の安いアエロフロートがあって助かるといっていた。例のモスクワ式非能率についてもむしろ面白がっている。日本人も数人いたがみんな気のおけない連中だ。食事がやっとはじまりかけたころから、ヨーロッパ各地へいく便の搭乗案内がはじまった。早い便に乗る人はごはん食べかけでたっていった。どうにか食事がすんだころフランクフルト行きの案内があった。「アリベデルチ」 「ハヴアナイストリップ」とつかのまの同志に別れをつげ、SU255便(ツボレフ)の機上の人となった。

 機内での反省

 定刻に離陸した255便は新緑の林に囲まれたシェレメチエボ垂港をたちまち箱庭にしてしまった。まもなく配られた機内食はとてもローカルカラーにあふれたものだった。縦に4つ切りにした大きくてややふやけたキュウリひときれ、まっくろな黒パン、レモン一片、バター、ワイン、そして親指の半分ほどのキャビア。少なくともアエロフロートでなければ味わえない献立である。なかなかおいしい。
 食べながら、いままでモスクワの悪口を言い過ぎたことを反省した。この一日、「待たされた」という点を除いてはなんの不都合もなかったのである。「待たせる」という不満も、悠久の大地に生きる大国民はせかせかしないからであって、極めて気ぜわしい国民性を持つ日本の、効率を最大の使命とするビジネス社会の、お客さまをお待たせしないことが最高のサービスと考えている銀行に長年勤めている人間が起こしたカルチュアショックに過ぎないのであろう。だいたい、空港ホテルに一泊するというのは、ソ連との付き合い方としてはもっとも不味い方法で、これでこの国を評価しては的はずれもはなはだしいはず。改めてゆっくりこの国のいいところをみに来ることにしょうとおもった。こんなことを考えているうちに255便は着陸態勢に入っていた。

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2008.08.27

東ドイツ紀行(1986年5月)・その1

第 一 章

 なぜ、東ドイツにいったか

 なぜ、東ドイツにいくことになったのか自分でもよくわからない。確かに、戦前生まれには馴染みの深い街、ベルリン、ポツダム、バッハゆかりの地ワイマール、ライプチッヒなどに心を惹かれたこともある。しかし、一番みたかったのは歴史ではない、「いま」の東ドイツであった。
 だから、東欧諸国の旅はパッケージツアーのほうがなにかと便利とはわかっていながら個人旅行でいこうときめたのだった。

 旅行情報をもとめて

 ふだん、海外旅行をするときはまず、ガイドブックなどでおおよその計画をたて、入口と出口にあたる空港、出発日、帰国日をきめて航空券の予約をする。ところが、今度の旅行はちょっと勝手がちがった。
 まず第一に、ガイドブックのたぐいが少ないのにびっくりした。非実用ガイドともいうべき、この国の歴史、文化などに関するする本はたくさんあるのに! 
 よく利用しているブルーガイドシリーズには東欧編はない。交通公社のほうはあることはあるが個人旅行者の役にはあまり立ちそうもない。
 舶来もののほうもミシュランは当然としても「$35 A DAY」シリーズにもない。ひとつ、「地球の歩き方」だけが多少なりとも実際に役にたつ東ヨーロッパ編をだしていた。愛用しているトマスクックの時刻表も東ドイツにはわずか6ページしかさいてくれていない。
 こうなると、たよりになるのは東ドイツ観光局ということになる。地下鉄の青山一丁目の近くの個人の家のようなマンションの3階にそのオフィスはあった。
 おすおずとベルを押すと中からてきぱきとした女性の声で「あいていますよ!どうぞ」という。初対面の印象はややきつそうな感じであったが、だんだんこのひとが親切でしかもかなり有能だということがわかってきた。「パンフレットは」。「ここにいろいろありますから好きなのを持っていってください」。「国鉄の時刻表は」。「これを見てください。でも、あっちへいけばキオスクで買えますよ」。「音楽会はやっていますか」。「当然です。ここに年間スケジュールがあります」。という具合にどんどん情報が手に入った。と同時にそれまで、この国に対して抱いていた「何となく近より難い国」という先入観が消えていった。パンフレットは主要観光地ごとに個別にあり、わかり易い、使い勝手のよいもので、これを見るとこの国が観光事業になみなみならぬ力を注いでいることが察せられる。

 ビザをとる

 観光ビザで東ドイツにいくには、この国のライゼビューローに滞在中に泊まるすべてのホテルの予約をしてバウチャーをもらいパスポートにこれを添付してビザを申請することになっている。一番簡単なのは、西ベルリンのいわゆる壁の穴で日帰りビザをもらい(これは簡単)、東ベルリンヘ行き、ここのアレキサンダー広場のライゼビューローでホテルの予約をし、このバウチャーを持って隣の警察へ行き滞在ビザに切り替えてもらうことらしい。しかし、勤めのある身で6泊7日で一つでも多く見てまわりたい私には、こんな時間の無駄づかいは許されない。
 日本でもやれることは極力済ませて行くことにし、ホテルとビザの手続きをアイ・ティー・イスに依頼した。(いきつけのエージェントに依頼すれば、いわゆる東欧との友好エージェントに取り次いでくれる)。

 ああ、アエロフロート

 はじめの計画では、東ベルリンから入り、ポツダムを経て南下、ワイマール、ライプツィヒ、ドレスデンを経てプラハ経由帰国することにしていた。そこで当然のごとく、一番便利なアエロフロートを申し込んだ。ところが、アイ・ティー・エスのYさんがいうには、「東欧の諸都市の場合はノーマル運賃をとられることが多いんですよ」。とのこと。「だって、モスクワからならロンドンやパリよりベルリンやプラハのほうが、ずっと近いじゃないですか、どうして近いほうが高いんでしょうね」。結局、Yさんの話などを総合すると、
 ---アエロフロートすなわちソ連は外貨(西のお金)が「のど」から手がでるほどほしい。日本から西ヨーロッパヘいく人がJALやエールフランスなどに乗らないでアエロフロートに乗ってくれれば大いに有り難い。だからディスカウントでお客をあつめる。しかし、東欧諸都市の場合は西の会社とは競合しない、いわば独占路線なのでディスカウントの要なしーーーーといった処らしい。なお、ディスカウントしてくれるときもあるが、これにも一定のルールがある訳でなく、すべてアエロフロート様の御意のままということらしい。

 そうなれば、コースの変更で対応

 そこで、急遽コースを変更、西ドイツのフランクフルトから入って列車でベブラを経て東ドイツに入り、アイゼナッハ、エルフルト、ワイマール、ドレスデン、ライブツィヒ、ポツダム、東ベルリンを経て西ベルリンヘ、ここから空路フランクフルト経由帰国することにした。こうしてみるとこれはこれでなかなかおもしろそうなコースである。
 もともと、旅程作りはどんなゲームやクイズにも負けないぐらい面白い遊びなので、なんどやりなおしてもあきない。以上のように、とにかくフライトとコースをきめて、エアーチケットとホテルの予約をした。なお、ホテルはいろいろな経験ができるように、超テラックス級からエコノミークラスまでとりまぜて予約してみた。

 長すぎた前奏曲

 申し込み手続きをしたのは出発予定日の一か月半前の三月十八日であった。ところが、ひと月たっても、さらに三十五日たってもなんのおとさたもない。
 東ドイツ大使館のビザの受け付けは毎週火曜と木曜、受け付けて一週間後に交付される。しかもほどなくゴールデンウィークに入る。いささかあせった。アイ・ティー・エスのYさんも心配してあちこち照会してくれた。一方、アエロフロートのほうも帰りの便がとれない。なんとも長くスリルに満ちた前奏曲であった。
 出発予定日を一週間後にひかえた四月二十八日、やっと返事がきた。せめてホテルの予約だけでも済んでいればあっちへ着いてからの仕事が楽になるとほっとした。おまけにYさんが奥の手のウルトラシーを使ってビザまで間に合わせてくれた。アエロフロートからも東ベルリン経由にてもディスカウントにて苦しからずとのご託宣があったので東ベルリンからまっすぐ帰国できることになりすべては解決した。

 とびこんできた不協和音

 出発日もいよいよ近づいたころ、例のチェルノブイリ原発のアクシデントの記事が新聞を賑わせはじめた。読んでいるとソ連や東欧はまるで1945年のヒロシマのようなさわぎだ。ふたりの兄も心配してかわるがわる電話してきて「トマトはよく洗ってたべろ、牛乳はポーランド製かどうかよくみてから飲め、雨が降ったらすぐ傘をさせ」などと忠告してくれた。
 しかし、冷静に考えてみればモスクワもベルリンもチェルノブイリから800km以上離れている。このあたりを5、6日うろうろしただけで健康に影響がでるのならユーラシア大陸は病人だらけになるはずである。なんとなくばかげているので気にせずにでかけることにした。

 写真はイリューシン

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2008.06.13

東地中海は今日も青空 最終回

 ドブロブニク アドリア海の真珠ーーーそれ本当です

 最終寄港地は、クロアチアのドブロブニクです。
 実は、我々は4年前にクロアチア旅行をしていて、ドブロブニクにも2泊してガイドさんつきで見物しています。
 
 それで今回は、ツァーに参加するの止めて、モンチャンと2人、ぶらぶら歩いてきました。
 ―――といっても、ことは、そんなに簡単ではありません。

 本船からテンダーボードで上陸地まで行きダウンタウンまではそこから更に船で用意してくれたシャトルバスで行かなくてはなりません。
 おまけに、今回の寄航地のなかで、クロアチアだけは、EUに属していませんから、いつもは船で預かってもらっているパスポートも必要です。ただ、実際は、MSCのテンダーボートから降りてきた我々は、パスポートコントロールはフリーパスでしたが。

 お金もユーロではなく「クーナ」という現地通貨です。
 もちろん、ユーロは通じますが、お釣りが現地通貨になったりややこしいことになります。

 ドブロブニクは、15-16世紀には、ベネツィアと並ぶ貿易都市国家として栄えました。
 この場所で都市国家として生きながらえたということから考えても、防衛に力を入れていただけでなく、凄い外交手腕を持った国だったということが察せられます。

 最初の寄港地として訪れたイタリアのバリとは、アドリア海を挟んだ対岸ですが、紺碧の海と空の美しさは共通としても、風景はまったく違います。あちらは単調な海岸線が続いているだけなのに、こちらは入り組んだ海岸線と、緑の島々。アドリア海につきでた街は、赤い屋根と白壁の家々、そして石畳の道で統一されている。これじゃ勝負になりません。
 しかしご存知の通りクロアチアは内戦でかなり破壊されました。しかし、がんばって街も見事復興させました。ヨーロッパを中心とした各国から、たくさんの観光客を集めています。
 
 シャトルバスを降りたところが旧市街の城壁の外側です。
 城壁内の中央通りは端から端まで10分程度の距離です。
 郵便局に寄ったり、美味しいアイスクリームを立ち食いしたりと短い「自由行動」を楽しみました。

 その後は、城壁ウオークをしました。
 城壁には、いくつも砲台がありこの都市国家の防衛力が感じ取れます。

 でも、そんな理屈を考えず、ひたすら無心に「この眺め」を楽しみたくなるーーーそんな街です。

 と云っても、のんびりしているわけには行きません。
 シャトルバスとテンダーボートを乗り継ぎ、13時30分までに本船に戻らないと置いていきぼりにされます。
 我々も急ぎました。

 ここ、ドブロブニクで、寄航も終わりです。
 午後からは「下船手続き説明会」、そして次の日の朝には、下船しなくてはなりません。
 あっという間に、8日間は終わりました。

 これで、拙い航海日誌の公開を終わります。もっとちゃんと書けばよかったと後悔しています。
 お読みいただき、ありがとうございました。

 写真は城壁からの眺めです。

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東地中海は今日も青空 その17

 コルフ(ケルキラ)島  西欧に戻ってきた気分

 ギリシャ最後の寄港地は「コルフ島」です。
 バルカン半島のアルバニアに、ほとんどくっついています。
 
 そんなに乾燥していない、緑の美しい島です。建物などを見ているとギリシャの島というよりも西欧の島という感じがします。
 無理もありません。場所がいいものですから、1400年ごろから、ベネツィアに支配されており、1815年からは英国の保護領となり、1864年にギリシャの一部になったものの、第一次大戦中にはフランスが一時期、軍事占領したーーーなど、欧州列強に代わる代わる支配されていた島なのですね。

 我々は「アヒリオン宮殿」へ行くツァーに参加しました。この舌を噛みそうな名前は「アキレウス(アキレス)さん」に因んでつけられたとか。

 「アヒリオン宮殿」はオーストリア皇后エリーザベトの別荘です。

 エリザベート皇后。この方、宝塚でも時々とりあげられていますが。愛称、シシィ。 オーストリア・ハンガリー帝国の皇帝(兼国王)フランツ・ヨーゼフ1世の皇后。とんでもない人に見初められちゃったのです。我がままで自由奔放に暮らしていたシシィ。よくある話ですが、万事窮屈な宮廷の生活に耐えられず、ストレスが溜まるばかりでいつも体調不良を訴えていた。旅行と買物が大好き(そりゃ、女性はみんなそうですが)。
 「何時までも美しくありたい(そりゃ、女性はみんなそうですが)」という気持ちの強い方で、60過ぎまで、実際お美しかった。 ダイエットやシェープアップに夢中になった(今では多くの女性の常識だそうですが)。ま、お生まれになったのが100年以上早すぎたのでしょう。さぞ、はたからいろいろ言われたことでしょう。
 息子ルドルフ皇太子には自殺されるし、ご本人も殺されるしーーー幸せな生涯とは言いがたい一生を送られた方です。

 それは、ともかく、このエリザベートさんの建てた別荘は半端なものじゃござんせん。

 海を見下ろす緑豊かな立地条件といい、フィレンツェ風のルネッサンス様式の建物といい、豪華な内装といい、結構なお庭といい、申し分ないです。
 私も、お庭から海を眺めながら、こんな別荘を持っていて、しかもお美しく、そして「不幸な」な方の「女の一生」を考えました。

 ま、いずれにせよ、復調して、元気に参加したモンチャンと、大いにこのお屋敷の見物を楽しみました。
 そして、思わずカメラのメモリーを減らしました。

 帰路、旧市街の英国風の公園、新要塞などを歩き、土産物屋通りを冷やかして歩きました。

 コルフ島、実はあまり期待していなかったのですが結構よかったですよ。

 写真は、お庭からの眺めを楽しむモンチャン

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