旅との出会い
はじめて旅行をしたのは、4才のときであった。
母に連れられて当時住んでいた東京・杉並から、母の郷里の兵庫県但馬の豊岡近くの村までである。
そのころ「燕」に乗るということは一つの事件であった。
東京から京都まで「燕」で行き、そこから山陰線に乗り換えて更に2、3時間かかったのであろうか。
あまり感動しない母でさえ「朝ごはんを食べてから出かけて、晩御飯までに着くなんて便利になったものね」といっていたのを思い出す。私の生まれる前年丹那トンネルが開通したからであろうか。
行く準備として、両親は私に自分の住所を覚えさせた。東京市杉並区○○―――と幾度も練習させられた。万一迷子になったときの用意だったのであろう。
肝腎の「燕」での往路についてはあまり記憶がない。駅で白髪の「赤帽さん」にトランクを運んでもらったこと、京都駅のホームに大きな洗面所があったことくらいだ。当時は蒸気機関車が多くトンネルの多い路線では顔や手が煤で黒くなってしまう。それを洗い流すためのものだったようだ。
帰路は、夜行列車だった。もちろん庶民が寝台車の乗るような時代ではない。普通の4人掛けの座席であった。きっと母にもたれかかって寝ていたのであろう。「ゴトン」という音で目が覚めた。列車は止まっていた。
助役さんらしい駅員さんの姿が夜のホームに灯った薄暗い電灯に浮き上がってみえた。「オオガキッ」という低い透る声がした。駅員さんは列車の車掌さんから大きな輪のようなものを受け取った。
列車はまた静に走りだす。外は暗闇であった。私の心のなかに、この駅の異界のような幻想的な風景がしっかりと残った。
戦時中の学童疎開先への旅などには、そんな思い出はない。
戦後、兵庫県の分水嶺の町、生野に住むようになって母の里へも近くなった。
子どもの居ない伯父に可愛がられていた私は、よく泊りがけで出かけたが、いつも「一人旅」であった。父の姉は更に遠い日本海岸の香住に住んでいたが、ここにも、やはり一人で出かけた。
とはいえ、播但線、山陰線と乗り継ぎのある列車の旅である。
それに、私も両親も何の不思議も感じていなかった。
ある日、汽車に乗り合わせた奥さんから「まあ、ようご両親は小学校四年生のお子さんを一人旅にだされますなぁ。私は、近くの市場に使いに出しただけでも戻ってくるまで心配でーーー」といっていたのを聞き「そんなものかなぁ」と思った程度であった。
「旅行したい、知らない街へ行ってみたい」という思いは成長しても変わらなかった。
東京の中学に転校してからは、よく休みの日に有楽町の三信ビルに行った。
この界隈には、外国の航空会社のオフイスが軒を並べていた。
ここで、宣伝のパンフレットをもらってくるのだ。
SASではノルウェーのフィヨルドの写真の入ったものを、BOAC(現在のBA)からは荒涼としたスコットランドの風景写真が載ってものをもらった。 もちろん英語のパンフレットである、が眺めているだけで満足だった。
当時は、海外旅行は禁止されていたし、世の中の一般の人にとっては生きるのに精一杯、まして外国旅行なんてーーーという時代であったのに。
私だけが「外国にも、いずれ行くようになるのだから下調べをしておこう」と本気で思っていたのだ。
昭和40年代になると海外旅行は条件付ながら自由化される。
私の思いもやっと時期に実現するのだが、そのときも、何のためらいもなく「一人旅」で旅立ったのであった。


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