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2008.08.30

東ドイツ紀行(1986年5月)・その6

 第 六 章

 5月7日(水)晴れ、夕方雨、日中暑い

 エルベの船旅

 今日は気分をかえてエルベの船旅を楽しむことにした。
マイセン行きは出発時刻の関係で無理なので逆にエルベを遡ってみることにした。遊覧船はテラスの下からでている。乗船券は片道l時間半の船旅で70円である。定刻に岸を離れるとちょうどパリのバトームシューのように街の景色をみせながらいくつもの橋をゆっくりゆっくりくぐつていく。                      
やがて街を離れると両岸は緑が深くなってくる。緑の間には古いシャトーやマンションが見え隠れする。そしてエルベはゆっくりとながれている。あの戦火のさなかにもこんなに美しい流れだったのであろうか。川幅は徐々にせばまっていく。両岸は草が萌えておりホルスタインがねそべっている。ポプラの並木が川面に陰を落としている。
 船はどこにでもあるような遊覧船だ。乗客は80%ほどの混みかた、チェコ、ブルガリアなど東欧の人が多いようだ。売店では絵はがきや写真も売っている。また、たのめばコーヒー、ビール、ジュースも持ってきてくれるしソーセージ、黒パンなどで軽食をとることもできる。マイクを使った説明などはない。到着のときだけアナウンスがある。
船員はここでもイレズミをしている。

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 風に吹かれてぼんやりと景色ながめていると、突然、女の子がきて袖をひっぱって何かいう。一目みて知的障害の子とわかった。「こんなところで何をしているの。早くこっちでみんなと遊びましょう」とでもいっている様子。
明らかに私を仲間のひとりと思っている。ついて行ってみると船尾のほうにこの子の仲間がたくさんいた。おそらく、障害児学級の遠足なのだろう。それにしても、私をみてすぐ同類とわかったのはさすがだ。一緒に遊んでいると先生が挨拶にきた。さすがドイツでこんな子供たちに対してもなかなか躾が厳しい。そうこうしているうちに下船予定のクラインチャッハヴィッツという船着場に着いた。

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 市電の運転手は困惑する

 ここは、まったくの草はらでなんにもない。ベンチに座ってのんびりと川をみていた。さて、帰るとなると、ここはどこなのか、どうやったらドレスデンに戻れるのか、さっばり分からない。ちよっと心細くなった。でも、船着場がある以上街が近くにあるに違いない。そう思って家のあ
る方向にどんどん歩いていった。びっくりするほど立派な家が立ち並んでいる。どの家も庭が広く季節の花が咲きみだれている。社会主義国家にも高級住宅地があることを初めて知った。地方都市だから政府高官の家のはずはない。
ドレスデンは工場の多いところだから、おそらく国営企業のエライサンの住宅なのだろう。
 更に行くと市電がみえた。シメタ!これで安心だ。運転手さんに「この電車は駅にいきますか」ときくと、「何処の駅にいきたいのか」ときく。「どこでもいいから最寄りの国鉄の駅までいきたい」---といえるほど、じつはドイツ語はできない。運転手も困ってしまったようだ。もじもじしていると市電はいってしまった。5分ほどしてまたきた。同じように「バンホフにいくか」ときくと手真似で乗れと合図する。
 市電は、住宅地をぬけ、工寒帯を通り、労働者住宅らしい団地(先程の高級住宅とは大分違う。社会主義国にも歴然と格差は存在する)の前を通ってえんえんと走った。
おかげでドレスデンの市内見学ができた。しかも、観光バスではみられない街の様子がよくわかった。スポーツセンターの前を通り電車はとうとうドレスデン中央駅に到着した。やれやれ助かった。ホテルヘいって荷物を受け取るとライブツィヒにむかうべく駅へいった。

 社会主義国のボナペテ

 とにかく、おなかがすいた。この駅には、セルフサービスのを含めて3つのレストランがある。この日は中級のレストランヘいってみた。隣のテーブルのひとが、大皿に焼肉やサラダを山盛りにした料理をもらっているのが美味しそうにみえたので、蝶ネクタイに白の上着のウエイターに手真似をまじえて注文した。彼は運んできた料理をテーブルにならべると「ボナペテ、マダム」といった。もちろん、お勘定のとき、これに、見合ったチップを置いたことはいうまでもない。
 江国 滋氏の「旅はプリズム」という本は、同氏が東ドイツ政府に招待されたときの旅行記であるが、このなかに、レストランが満員であやうく食事をしそこねる話、ウエイトレスの態度が悪くて腹をたてる話か再三でてくる。今回の旅行中、そんなことはまったく経験しないですんだ。招待客であり現地のガイドに四六時エスコートされていてこうなのだから当時1976、7年ごろは余程、事情がわるかったのであり、ここ数年で大幅に好転したのであろう。
 目下、国をあげてサービス改善に精一杯努力していることはよくわかる。たとえば、インターホテルなどでは、日本の会社のように従業員が胸に名札をつけており、「万一、応対の悪いものがおりましたら名札の名前をみておいてマネージャーまでご一報ください」という掲示がでていたり、例の「バスルームの清掃 1、よい  2、ふつう 3、わるい」といつたスタイルのアンケートがライティングデスクに置いてあったりするのだから。
 そのうえ商店でも、郵便局でも、「この窓口は何曜日は何時から何時まで開いています」ということが明記してあり、しかも私の経験では間違いなくその時刻には係員がいた。
 でも、ボナペテ、マダムは一寸意外であった。

 ライプツィヒ市民はホテルメルクアを見上げる

 急行に乗ればライブツィヒまでは1時間半でいく。小さい国なので大都市相互の距離はほどんど2時間か3時間以内だから移動にはあまり時間をとられない。列車がライブツィヒにさしかかると早くも車窓から天高くそびえるホテルメルクアが目に飛び込んでくる。中央駅のすぐわきにあり27階建、高さ100m。泊まるのが気恥ずかしくなるようなごたいそうなホテルだ。勇気をふるってフロントに近づく。厳かに、且つ、にこやかに迎えられた。
 5年前、鹿島建設の施工により完成、エレベーターは三菱電機の高速用が据付られている。単に入れ物だけでなく、ホテルのソフトも日本流だ。部屋には小型冷蔵庫、いわゆるミニバーがあり、ちゃんと伝票とエンピツが置いてある。廊下の大型冷蔵庫には、ミズワリには欠かせないアイスキューブがたっぷりと入っている。トイレットは消毒済みのシールで封印されている。ドアのノブにかける「DO NOT DISTURB」の札も独、英、露、仏、西とあって最後は「起こさないでください。就寝中のため」という日本語である。MESSEのときなどにやってくる西側の
ビジネスマン向けで、おそらく日本の商社マンも利用するのであろう。
 ここにはプールはいうにおよばずサウナからフィットネスクラブまであるそうだ。正に至れりつくせりの感がある。
立派なものを作るとなればとことん立派にしないと気が済まないというのもやはりドイツ式である。ここだけは、超一流だけあって朝食も例の8マルクの枠はなく食べ放題の由。

 またまた、ライゼビューローヘ

 まず、ライゼビューローにいく。明日のホテルがマグデブルグに指定されている。誰もこんなところをたのんだ覚えはない。一方的に当てがわれたのだ。明日はベルリン見物を予定しているのにそんなところに泊まったら不便だ。大体、マグデブルグになにがあるというのだ。昔、教科書で真空の実験をするために馬で空気を抜いた玉を両方からひっぱった話がでていたが、私がこの街について知っていることといえばこれだけだ。メッセライゼビューローには例によっておばちゃんがいて「分かりました。ベルリンにきいてみましょう。但しベルリンのホテルはみんな高いですがよろしいですね。いえ、差額を払っていただくという訳にはいかないのです。一旦全額支払っていただいてマグデブルグのクーポンは日本へ帰ってから払い戻してもらっていただくことになりますが」。と分かりやすい英語で応じてくれた。なんでもいいからとにかくベルリンに泊まりたいというと20分ぐらいあちこち精力的に電話をかけていたが、「アイアムソーリー、ベルリン市内のホテルはすべて満員です」とのこと。丁寧にお礼をいってライゼビューローを後にした。

 聖トマス教会にて

 街を歩いてみる。若いひとが多い。服装もなかなか垢抜けしている。本屋、楽譜屋がめだつ。たしか、ペーター版、レクラム文庫の故里のはず。楽譜屋には、モーツアルト、ベートーベン、バッハ、メンデルスゾーンなどの古典が多い(昔のペーター版にくらべ紙質がよくない)。ここの国にきてからヴァイオリン抱えた子供によくあう。クラシック音楽は盛んのようだ。
 また、本屋さんにはコンピューター関連のものが目につく。この国は今、国をあげてハクテク化に取り組んでいるのだ。
 先ず、聖トマス教会へ。ここでは、ヨハン・セバスチャン・バッハが1723年から世を去るまでつとめていて沢山の名曲を残しており、今もここに眠っている。祭壇に墓標があり、赤いバラが手向けてあった。一体、幾度、バッハの音楽に慰められたことだろう。きっと、この後もまた。
 幸いにして、今回の旅ではアイゼナッハ、ワイマール、ライプツィヒとケーテンをのぞき、バッハの足跡をすべてたどることができた。
 ここで、はじめて、日本人観光客に出会う。新婚らしいカップルで当地のガイドを連れている。ガイドは英語で解説していた。聖トマス教会は小さいが、すきっとしたゴチック建築でステンドグラスも美しい。

 何はさておきゲバントハウス

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 ライプニッツの像のあるライブツィヒ大学をちょっとみて再建なったゲバントハウスヘいく。思えば東ドイツにきてまだ一度もコンサートに行っていない。いくならば今夜をおいてチャンスはない。入口の案内版によると木曜は大ホールは休みだが、今夜は小ホールでソ連のピアニスト、
ルドルフ ケーラーというひとのリサイタルがある。プログラムはショパンのポロネーズ、ノクターン、プレリュード、リストの葬送曲(はじめて聴く曲)、ハンガリアンラプソディ、ベトラルカのソネット。

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 早速、窓口にいって当日売りの切符は何処で売っているかを尋ねる。といってもドイツ語はわからない、知っている限りの単語を必死でならべる。「ホイテ、アーベント、クライナーザール、ピアノ、いや、ええとクラヴィールかな、チケットじゃなくてカルテかしら」。こつちのいったことが分かったらしくしやべりだす。さっばり分からないけどジーベンウーアといいながら小ホールの入口を指差す。〈多分、7時にここにくれば買えるのであろう。違ったらどうするか、心配ない、別に生命に係わる問題ではない。大学出のインテリと違って庶民はたくましく、恥しらずに旅を続ける。〉

 レストランさくらと、また親切な日本人

 こうなると忙しい。ホテルに戻って着替えなければ。とはいっても着たきりスズメのこと、でもコンサートに行くのだからせめてブラウスぐらいは替えよう。それから食事も済ませておかなければ。
 ホテルメルクアには、日本レストラン「さくら」があって、東ドイツの板前さんが腕をふるい、東ドイツの娘さんがお給仕をしてくれるとか。話のタネにここにいってみた。鉄板焼きを注文する。急いでもらわねば。ところで、ええと、「急いでください」は何というんだったっけ。わずかな単音をやり繰りしている身には一つ忘れるのは痛手である。近くで列車の走る音がする。急行列車は確かシュネルツークだ。青い眼の板さんに「シュネルツーク、ビッテ」というと分かったらしくこコニコしていた。やがて、紺地のゆかたに黄色の博多帯の東ドイツ娘さんがしずしずと赤だしをお盆に乗せて運んでくる。突き出しは糸ごんにゃくときのこの煮付け。あとビールと鉄板焼き。これは牛の他にじゃがいも、人参、しいたけ。タレはボンズとゴマダレがグートとのこと。
 テーブルの向こう側の3人達れのひとりが「これから何処かへお出掛けですか」と日本語で話しかけてくる。やはり、東ドイツの企業に技術指導のため派遣されているのだそうだ。ゲバントハウスヘ行くことを話すと、「ちょうどそっちに行きますからお送りしましょう」といってくださる。外はまた激しい夕だちだ。ご厚意に甘えることにした。
彼の部下らしい東ドイツの青年2人と車に乗せてもらう。
この2人はこのケンと呼ばれる日本人を尊敬していてよくいうことをきく。そして、たどたどしいが日本語も知っている。
 私のために近道をする。「ケン、ポリツアイがくるよ」と青年のひとりが注意している。最初の日に会った日本人が現地の生活に馴染もうとせず、ひたすら日本を恋しがるタイプであったのに対し、この人は積極的に現地のひとびとと打ち解けていくタイプらしい。2人に共通することは私に親切なことである。5分ばかりで夕だちの降りしきるなかをゲバントハウスに着いた。

 順番は公平に

 入り口にはすでに6、7人が待っていた。雨か激しいので列をくずして軒下に入っている。7時きっかりに開門、 前売り券をもっている人から入れていく。その後でお客の入り具合をみながら3、4人ずつ、当日売りを待っている人を入れていく。列は崩れていたがみんなさすが行列のプロだけあって順番はよく覚えている。10分ぐらいたって「次のひと」と呼ぶと誰かが私の背中を押す。
 なかに入ると、紺の上っぱりをきたおじいさんの係長が切符売り場に連れていってくれる。切符は8マルク〓六百円)。プログラムは40円。ロビーは華やか。みな精一杯おしゃれをしてきている。尼さんたち、眼のみえないご主人の手をひいているおばあさんもいる。
 ワイン、ジュースも売っており、ワイン片手におしゃべりを楽しんでいる様子はウィーンのシュタートオーバーあたりと少しもかわらない。座席は完全にふさがっていた。

 聴きごたえのある演奏

 このケーラーというひと、日本ではレコードもでていないし、まったく初めてである。60過ぎの逞しいひとである。まず、ポロネーズ(英雄)のでだしでぴっりした。
おなかにどんとくるような達しい弾きかただ。もっとも、ゲバントハウスの音響効果もそうとうなものだ。
 しかし、なんといっても、彼はロシア人、しかもかなり武骨な感じのするひとだ。一方、ショパンはポーランド人、リストはハンガリーの農村の生まれ、そして、ここは東ドイツである。ショパンもパリの社交界にいるときのように気どってはいない、逞しいショパンである。そのせいか、プレリュードでは、あのやるせなさ、悩ましさが感じられない。リストでは、特にハンガリアンラプソディーで確かな技巧をみせていた。しかし、なんといっても力のこもった演奏でふかく感動した。

 ゲバントハウスの聴衆

 満員の聴衆は一曲ごとにわれるような拍手でこたえた。
また、演奏中も身をのりだし、からだで拍子をとりながらききいっている。
 メンデルスゾーンを初代の常任指揮者としているゲバントハウスオーケストラを長年にわたりささえてきたのは聴衆、すなわちライブツィヒの市民である。かれらはきわめて質の高い聴衆として自他ともに認めている。ここでうけたということは、おそらく演奏家冥利につきることであろう。アンコールに6曲ひいたことでもかれの感激がわかる。
このあたりから舞台と客席が完全に一体となっていた。最後のアンコールのとき、もう終わけだろうと思って廊下にでたらまたものすごい拍手なので引きかえしてみるとかれはステージから私をみつけて手真似で席に着くように合図する。私が座ると「ダンケ・シェーン」といってグリークをひきはじめた。
 ホールをでるとすでに雨はあがっていた。東ドイツは治安のよいところなので深夜の道をホテルまで歩いても、心配はない。この夜は興奮したのかなかなか寝つけなかった。

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Comments

エルベの船旅の章。着いたところがクラインツシャツハゲィッツとあります。これはカタカナ書きの読み違え。クラインチャッハヴィッツ Kleinzschachwitz でしょう。対岸にピルニッツの離宮があります。
聖トマス教会にての章。オルガンは1889竣工の Sauer-Orgel と世紀替わりにできたばかりの Woehl-Orgel の二つです。アルベルト・シュヴァイツァーがここにオルガンを寄進した事実はありません。博士がジルバーマン・オルガンの保存に尽力した事の思い違いではありませんか?

Posted by: e. george | 2008.09.07 at 05:41 PM

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