« 東地中海は今日も青空 最終回 | Main | 東ドイツ紀行(1986年5月)・その2 »

2008.08.27

東ドイツ紀行(1986年5月)・その1

第 一 章

 なぜ、東ドイツにいったか

 なぜ、東ドイツにいくことになったのか自分でもよくわからない。確かに、戦前生まれには馴染みの深い街、ベルリン、ポツダム、バッハゆかりの地ワイマール、ライプチッヒなどに心を惹かれたこともある。しかし、一番みたかったのは歴史ではない、「いま」の東ドイツであった。
 だから、東欧諸国の旅はパッケージツアーのほうがなにかと便利とはわかっていながら個人旅行でいこうときめたのだった。

 旅行情報をもとめて

 ふだん、海外旅行をするときはまず、ガイドブックなどでおおよその計画をたて、入口と出口にあたる空港、出発日、帰国日をきめて航空券の予約をする。ところが、今度の旅行はちょっと勝手がちがった。
 まず第一に、ガイドブックのたぐいが少ないのにびっくりした。非実用ガイドともいうべき、この国の歴史、文化などに関するする本はたくさんあるのに! 
 よく利用しているブルーガイドシリーズには東欧編はない。交通公社のほうはあることはあるが個人旅行者の役にはあまり立ちそうもない。
 舶来もののほうもミシュランは当然としても「$35 A DAY」シリーズにもない。ひとつ、「地球の歩き方」だけが多少なりとも実際に役にたつ東ヨーロッパ編をだしていた。愛用しているトマスクックの時刻表も東ドイツにはわずか6ページしかさいてくれていない。
 こうなると、たよりになるのは東ドイツ観光局ということになる。地下鉄の青山一丁目の近くの個人の家のようなマンションの3階にそのオフィスはあった。
 おすおずとベルを押すと中からてきぱきとした女性の声で「あいていますよ!どうぞ」という。初対面の印象はややきつそうな感じであったが、だんだんこのひとが親切でしかもかなり有能だということがわかってきた。「パンフレットは」。「ここにいろいろありますから好きなのを持っていってください」。「国鉄の時刻表は」。「これを見てください。でも、あっちへいけばキオスクで買えますよ」。「音楽会はやっていますか」。「当然です。ここに年間スケジュールがあります」。という具合にどんどん情報が手に入った。と同時にそれまで、この国に対して抱いていた「何となく近より難い国」という先入観が消えていった。パンフレットは主要観光地ごとに個別にあり、わかり易い、使い勝手のよいもので、これを見るとこの国が観光事業になみなみならぬ力を注いでいることが察せられる。

 ビザをとる

 観光ビザで東ドイツにいくには、この国のライゼビューローに滞在中に泊まるすべてのホテルの予約をしてバウチャーをもらいパスポートにこれを添付してビザを申請することになっている。一番簡単なのは、西ベルリンのいわゆる壁の穴で日帰りビザをもらい(これは簡単)、東ベルリンヘ行き、ここのアレキサンダー広場のライゼビューローでホテルの予約をし、このバウチャーを持って隣の警察へ行き滞在ビザに切り替えてもらうことらしい。しかし、勤めのある身で6泊7日で一つでも多く見てまわりたい私には、こんな時間の無駄づかいは許されない。
 日本でもやれることは極力済ませて行くことにし、ホテルとビザの手続きをアイ・ティー・イスに依頼した。(いきつけのエージェントに依頼すれば、いわゆる東欧との友好エージェントに取り次いでくれる)。

 ああ、アエロフロート

 はじめの計画では、東ベルリンから入り、ポツダムを経て南下、ワイマール、ライプツィヒ、ドレスデンを経てプラハ経由帰国することにしていた。そこで当然のごとく、一番便利なアエロフロートを申し込んだ。ところが、アイ・ティー・エスのYさんがいうには、「東欧の諸都市の場合はノーマル運賃をとられることが多いんですよ」。とのこと。「だって、モスクワからならロンドンやパリよりベルリンやプラハのほうが、ずっと近いじゃないですか、どうして近いほうが高いんでしょうね」。結局、Yさんの話などを総合すると、
 ---アエロフロートすなわちソ連は外貨(西のお金)が「のど」から手がでるほどほしい。日本から西ヨーロッパヘいく人がJALやエールフランスなどに乗らないでアエロフロートに乗ってくれれば大いに有り難い。だからディスカウントでお客をあつめる。しかし、東欧諸都市の場合は西の会社とは競合しない、いわば独占路線なのでディスカウントの要なしーーーーといった処らしい。なお、ディスカウントしてくれるときもあるが、これにも一定のルールがある訳でなく、すべてアエロフロート様の御意のままということらしい。

 そうなれば、コースの変更で対応

 そこで、急遽コースを変更、西ドイツのフランクフルトから入って列車でベブラを経て東ドイツに入り、アイゼナッハ、エルフルト、ワイマール、ドレスデン、ライブツィヒ、ポツダム、東ベルリンを経て西ベルリンヘ、ここから空路フランクフルト経由帰国することにした。こうしてみるとこれはこれでなかなかおもしろそうなコースである。
 もともと、旅程作りはどんなゲームやクイズにも負けないぐらい面白い遊びなので、なんどやりなおしてもあきない。以上のように、とにかくフライトとコースをきめて、エアーチケットとホテルの予約をした。なお、ホテルはいろいろな経験ができるように、超テラックス級からエコノミークラスまでとりまぜて予約してみた。

 長すぎた前奏曲

 申し込み手続きをしたのは出発予定日の一か月半前の三月十八日であった。ところが、ひと月たっても、さらに三十五日たってもなんのおとさたもない。
 東ドイツ大使館のビザの受け付けは毎週火曜と木曜、受け付けて一週間後に交付される。しかもほどなくゴールデンウィークに入る。いささかあせった。アイ・ティー・エスのYさんも心配してあちこち照会してくれた。一方、アエロフロートのほうも帰りの便がとれない。なんとも長くスリルに満ちた前奏曲であった。
 出発予定日を一週間後にひかえた四月二十八日、やっと返事がきた。せめてホテルの予約だけでも済んでいればあっちへ着いてからの仕事が楽になるとほっとした。おまけにYさんが奥の手のウルトラシーを使ってビザまで間に合わせてくれた。アエロフロートからも東ベルリン経由にてもディスカウントにて苦しからずとのご託宣があったので東ベルリンからまっすぐ帰国できることになりすべては解決した。

 とびこんできた不協和音

 出発日もいよいよ近づいたころ、例のチェルノブイリ原発のアクシデントの記事が新聞を賑わせはじめた。読んでいるとソ連や東欧はまるで1945年のヒロシマのようなさわぎだ。ふたりの兄も心配してかわるがわる電話してきて「トマトはよく洗ってたべろ、牛乳はポーランド製かどうかよくみてから飲め、雨が降ったらすぐ傘をさせ」などと忠告してくれた。
 しかし、冷静に考えてみればモスクワもベルリンもチェルノブイリから800km以上離れている。このあたりを5、6日うろうろしただけで健康に影響がでるのならユーラシア大陸は病人だらけになるはずである。なんとなくばかげているので気にせずにでかけることにした。

 写真はイリューシン

Photo


|

« 東地中海は今日も青空 最終回 | Main | 東ドイツ紀行(1986年5月)・その2 »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




« 東地中海は今日も青空 最終回 | Main | 東ドイツ紀行(1986年5月)・その2 »