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2008.08.28

東ドイツ紀行(1986年5月)・その2

 第 二 章

 さて、いよいよ出発

 5月3日(土)くもり、ときどき雨、うすら寒い

 長かった前奏曲もようやく終わり、いよいよ出発の日となった。心も軽く、荷物も軽く(折畳みナイロンバッグには洗面具、最小限の着替え、ショルダーバッグにはカメラと資料、合わせて2・5kg)家をでる。母が西鎌倉の駅まで送ってくれた。大船からは横須賀線・総武線直通の成田行き。
 成田空港27番ゲイトには、13時発SU588便のイリユーシン62Mが待っていた。例の写真でお山馴染みの尾翼の下にエンジンを4つ付けた機体である。はじめて乗ってみたが内装はボーイングなどとほぼ同じようなものだ。
 なかは、20%ぐらいの入りでがらんとしている。チェルノブイリ事故の影響であろう。さて、機内食だが材料は成田仕込みながらメニューはロシア風。やっぱりチキンカツがでた。チキンフロートと異名をとるアエロフロートらしくていいのだがメニューに「キエフ風」とあるのが、時節柄一寸気になった。感心なことに、食事のときはかならずワインが一杯だけつく。
 お酒のお替わり有料、映画・イヤホーンのサービスはないが、大部分のお客は、そんなサービスより運賃の安いのを望んでいるはずだ。少なくとも私はそうだ。なにしろ、今日はすいているので3つぐらいの座席を占領してのびのびと横になれた。かくして、モスクワ時間の17時30分、白樺の新線が目に染みるシェレメチエポ空港についた。

 シェレメチエボ空港の忍耐

 今晩はここでトランジット泊ということになっている。どこの空港でも、翌朝まで乗り継ぎ便がないときはホテル代など先方もちで泊めてくれるらしい。この制度を利用してヨーロッパの帰途かならずシンガポールやバンコクに寄り道して見聞を広めてくる人もいるとか。特に、アエロフロートは、アジアとヨーロッパの中継地としてモスクワトランジット泊を売り物にしているようだ。
 ターミナルビルの案内標識にしたがって2階にあがってみるとまだ誰も来ていなかった。やがてぞろぞろ30人以上も集まってきた。結局、乗客のほとんどがトランジットなのだ。ここには椅子のたぐいがないので立ったままで待つ。30分程してようやく制服の係員がやってきた。ヴォリュームのあるカラダが踵のやたらに細いハイヒールに辛うじて支えられているのが印象的なおばちゃんだ。
 何かいっている。どうやら行列の先頭は誰かときいている様子。本当は私が一番なのだがこんな場面では、奥ゆかしく人に先を譲り、何をどうするのかをよく確かめてからそれにしたがうのが無難なことは何度も経験ずみである。
 そこでわざと後ろのほうへ並んだ。
 ここでは、航空券を見せて乗り継ぎ客であることを確認する。次に、別のカウンターで仮ビザをもらってパスポートを預ける。(出入国管理の厳しいソ連でもトランジット泊にはビザを用意していく必要はない)。最後に翌日の出発便ごとに名前を確認してから空港ビルのそとに待機している送迎バスにのせてもらうことになる。しかし喜んではいけない。バスは他の便のお客も待つのである。
 結局、われわれを乗せたバスが空港を離れたのは、実に着陸の3時間後であった。これは、到着客名簿、出発客名簿、宿泊客名簿がすべて手書きなので記入漏れ、記入相違が起きやすいことや、予定を変更したお客などイレギュラーが発生したとき問題の分を一括して処理しようとせず都度、中断して別室の上司にお伺いをたてにいってしまうなど、一言でいえば能率が悪いのである。また、手続きの説明をまえもってすることもしない。(英語は分かるくせに)。

 空港ホテルに泊まる

 ホテルは空港の敷地のすぐ外に聾えたっている。部屋はすべてバス、トイレつきのツイン。ただし、なかは相当安普請で床のリノリユームはぺこぺこしている。
 ホテルに着くと今度は部屋割りの番だ。これがまた難物である。宿泊客には私のような一人旅や、三人づれもすくなくない。ところが、部屋はすべてツインである。私は当然、日本人同士一緒の部屋にするものだとおもっていた。
 ところが、フロント嬢は国籍に関係なく名簿の順にどんどん部屋割りをはじめた。バスで一緒だったベルリンに留学するというお茶の水の学生さんが初めての旅で心細そうにしていたので同室にしてほしいと申し出たが即座に「ノウ」といわれた。
 私の相客は中年のドイツ人でシュツットガルトの住人。ルクセンブルグ経由モスクワに来た由。明日、ここからソマリアのモガジシオヘ行くそうだ。(遠まわりでもこのルートが一番安いとのこと)。とってもいい人でお風呂に先に入るように勧めてくれたりいろいろと気を遭ってくれた。
 さすがに疲れたので夕食もとらずベットにはいった。(後できいた話ではぬかしても決して後悔するような内容ではなかった由)。トランジット泊のときは機内預けの荷物がでないということを知らなかったので今・夜はパジャマもハブラシもない。まあいいや。一晩だもの。

 モスクワの朝

 5月4日(日)晴れ、午後暑くなる

 ピーピーというものすごいブザーの昔で目がさめた。飛行機の中とは違ってやっぱりぐっすり眠れる。隣のドイツ人が「あんたを起こしにきたらしいわよ」という。あわてて着替えて廊下にでてみると「支度をしてロビーに集合せよ」とのこと。ところでわざわざ起こしにこなくてもモーニングコールをやればよさそうなものだが、このホテルには電話がないのだ。内線だけではない。外線もないらしい。フロントの掲示に「当ホテルには電話はありません。緊急に外部と連絡が必要な際はテレックスをご利用ください。この場合、費用は当ホテルで負担します」。という意味のことがかいてある。首都の空港ホテルに電話かないのはこの国だけではあるまいか。なんといってもユニークな国である。
 時計をみるとまだ6時20分だ。私の乗るフランクフルト行きは9時45分発のはず。なんだってこんなに早く起こすんだろう。いや待てよ、昨日、手続きに3時間かかっているんだから今日も同じくらいはかかるのだろうと一人で納得した。

 空港レストランの朝食

 今日は手続きがスムーズにいって8時ごろには完了した。
 さて、朝ごはんはどこで食べるのかなとおもっているとみんなぞろぞろ空港レストランに入っていく。例によってなんの説明も指示もない。ゆうに百人はすわれるこのレストランのテーブルの上は前の人たちの食べあとがそのままで従業員はだれもいない。30分まってもいっこうに現れないのでアメリカ人の男の子が捜しにいった。彼の報告によると奥の調理場で自分たちの朝ごはんをたべているという。さらに、30分ぐらいしてやっと現れ、ゆうゆうたるテンポでかたづけはじめた。メニューは、半熟卵、ハム、チーズ、トースト、ジャム、バター、コーヒーと堂々たるもので味もなかなかよろしい。ただ、コーヒーだけは本物という説と何とかいう樹のねっこを煎じた代用品という説と両論あった。

 トランジット仲間

 昨日、今日と長い待ち時間を一緒に過ごしたトランジット仲間とすっかり親しくなった。学生など若い人が多く、イタリア、フランス、ドイツ、スイス、デンマークなどあちこちからきている。運賃の安いアエロフロートがあって助かるといっていた。例のモスクワ式非能率についてもむしろ面白がっている。日本人も数人いたがみんな気のおけない連中だ。食事がやっとはじまりかけたころから、ヨーロッパ各地へいく便の搭乗案内がはじまった。早い便に乗る人はごはん食べかけでたっていった。どうにか食事がすんだころフランクフルト行きの案内があった。「アリベデルチ」 「ハヴアナイストリップ」とつかのまの同志に別れをつげ、SU255便(ツボレフ)の機上の人となった。

 機内での反省

 定刻に離陸した255便は新緑の林に囲まれたシェレメチエボ垂港をたちまち箱庭にしてしまった。まもなく配られた機内食はとてもローカルカラーにあふれたものだった。縦に4つ切りにした大きくてややふやけたキュウリひときれ、まっくろな黒パン、レモン一片、バター、ワイン、そして親指の半分ほどのキャビア。少なくともアエロフロートでなければ味わえない献立である。なかなかおいしい。
 食べながら、いままでモスクワの悪口を言い過ぎたことを反省した。この一日、「待たされた」という点を除いてはなんの不都合もなかったのである。「待たせる」という不満も、悠久の大地に生きる大国民はせかせかしないからであって、極めて気ぜわしい国民性を持つ日本の、効率を最大の使命とするビジネス社会の、お客さまをお待たせしないことが最高のサービスと考えている銀行に長年勤めている人間が起こしたカルチュアショックに過ぎないのであろう。だいたい、空港ホテルに一泊するというのは、ソ連との付き合い方としてはもっとも不味い方法で、これでこの国を評価しては的はずれもはなはだしいはず。改めてゆっくりこの国のいいところをみに来ることにしょうとおもった。こんなことを考えているうちに255便は着陸態勢に入っていた。

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