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2008.08.31

東ドイツ紀行(1986年5月)・その7

 第 七  章

 5月8日(木)くもり、ときどき晴れ

 さて、いよいよベルリンヘ

 昨夜はよく眠れなかったが、今朝は早く目がさめた。今日はベルリンヘ行く日なのだ。ライプツィヒからベルリンのシェーネフェルト空港駅まではノンストップで1時間50分。幹線だけにコンパートメントもきれいだ。女の車掌さんが来て特急券を買わされた。300円なり。空港に駅
があって、しかも急行、特急がすべて止まり、国電までが乗り入れているのは東ベルリンだけだと思う。
 とりあえず、西ベルリンヘいってみたい。西ベルリンヘの入り口(すなわち、壁の穴)はふたつある。ひとつはチェックポイントチャーリー、もうひとつはフリードリッヒシュトラーセである。今回は国電の便のよいフリードリッヒシュトラーセ経由でいくことにした。シューネフェルト空港駅からフリードリッヒシュトラーセ駅までは案内板をたより国電を乗り換えてなんとか行けた。

 とうりゃんせ、壁の穴

 ここは、ターミナル駅なのでなかなか大きい。インフォーメーションオフィスの前の案内板には駅構内の見取り図があって、レストラン、キオスク、トイレなどの場所はよくわかる。ところが、肝心の西ベルリンヘの入り口が見つからない。通りがかりのひとにきいてみようとも思ったが、ことがことだけにべルリン市民にたずねるのはちょっとはばかられた。困ったな、と思ってなおもよく見取り図をみるとポリツァイという字が見えたので行ってみた。パスポートをみせると、こちらの聴きたいことがすぐわかり、コンコースの外をさして「アウス、アウス」という。  
 外へでてみるとなるほど、駅と隣の体育館のような建物との間に空き地がありここに動物園の入場券売り場のような窓口がいくつか並んでいた。なんとなく一番とっつきの窓口に並んだ。この日は特にすいていたのか並んでいたのは4、5人だった。しばらくすると前に並んでいたおばあさんが、私の袖をひっぱり何かいっている。例によってドイツ語は分からないのでキョトンとしていると、十六の菊のご紋章のついた赤いパスポートを指して次に奥の窓口を指す。ハハア、ここじゃないんだな、ということが分かったので改めて出札窓口をよくみてみた。そうすると窓口の上にプレートが出ている。今いるところは「BÜRGER DDR」、隣は「BÜRGER BDR」、その次は「BERLIN STAAT--なんとか」とある。私はその場に荷物を置きバッグからGEMの独和辞典をだしてBÜRGERという言葉を調べた。そうか、手前は東ドイツ国民用、次は西ドイツ国民用、その奥はベルリン市民用(ということは彼らは別のパスポートを持っているのかしら)ということか。
 それならそのどれにも属さない私は一番奥の窓口にいけばいいんだな。
 そこにはふたりしか並んでいなかった。前の小柄な紳士は口髭なんかはやしてどこか気障な感じがしたらやっぱりイタリア人だった。次の黒いコートの婦人はポーランドのパスポートを持っていた。二人とも1、2分で済んだ。私の番がきて窓口の若いうす青い目のポリツァイさんにパスポートをみせた。彼は先ず私の顔を穴のあく程みつめてからパスポートの写真をじっとみた。次にパスポートをばらばらめくってヴィザを確認した。そして私のほうをみて「アインマル、かウントツーリュック、なのか」と手真似をまじえながら質問した。そのツーリュックのほうで頼むというとすぐ通してくれた。

 国電のなかはため息の合唱

 べ二アで囲った細い通路を通り抜けるとまた駅のコンコースに出た。ここから階段を登るとホームになっている。ここには別の国電が待っておりすでに半分くらいの座席がうまっていた。車掌さんも運転手さんもさっきと同じ東ドイツの制服を着ている。この後、さらに5、6人乗ってから電車は動きだした。出るとすぐ高架線になり例の壁に添ってしばらく走る。壁越しに西ドイツの国旗がたかだかとあがっているのが見える。車内から小さな歓声があがった。
 やがて電車は国境を越え西ベルリンの最初の駅に到着する。
 ここで東ドイツ側の乗務員がすべて降りる。引き換えに西ベルリンの乗務員が乗り込んでくる。乗務員交替を終えると電車はすぐに発車した。この時、私の前の座席にいた4人の家族ずれのおかあさんがびっくりするような大きなため息をついた。これにつられて車内のあちこちからため息や歓声がきこえてきた。この家族ずれ、古ぼけたトランクを8つも持っていたし服装も古びている。どんな事情があったのか。何か重い過去がこの時代遅れなトランクの底に隠されているように感じられる人たちであった。サラダのたっぷりついた昼食を食べるのが西ベルリンヘいく主な目的という人は少なくとも私のほかにはいない模様である。
 (東ドイツでは、到着した翌々日以降、生野菜がレストランのメニューからもマーケットからも消えた。例のチェルノブイリの放射能に対する懸念からであるう。しかし、後に会った日本人の話では、まったく何のご挨拶もなく「突然」姿を隠したのである。帰国の前々日ころには、また何のご挨拶もなく登場した)
 こんなことを考えることすら何か不謹慎なような車内の雰囲気であった。

 自由とはきたなく、うるさいもの

 5分ほどでZ00駅、すなわち動物園前駅、に到着。ここで下車した。東京でいえば上野と銀座をつきまぜたような繁華街だ。西ベルリン側では、まったく入国審査はない。ホームから通路へ出てびっくりした。なんともきたないのである。
 空き缶やビニールが散乱し埃っぽい。塵ひとつおちていない東ベルリンからくるとよけいにそう感じる。駅の構内をでると、まずコジキが目に付いた。しばらく歩くとアル中のおっさんがいた。完全に目が据わっていて怖い。とにかく、オイロバツェンターというルミネのような雑居ビルヘいき、ここで煮込み料理とサラダを食べた。オイローバツエンターの展望台はティールームになっている。ここで600円のクリームサンデーを嘗めながら(西ベルリンは物価が高いのである)街を見渡していると厚い雲の割れ目から太陽が顔をだした。まぶしい日差しを浴びながら私は太陽と話し込んでいた。
  「コジキがいるっていうけど、東ではコジキをする自由もないということじゃないのかね」。「でも西側諸国の人たちはこの40年、ありとあらゆる自由を試してみたでしょう。ゼネスト、ウーマンリブ、学園紛争、離婚、ヒッピー、ヌーディストクラブーーーそれで何が得られたんですか。いまじや、ユーロペシミズムなんていっているでしょう」。「しかし、あんたは、ベルリンの壁を越えてきたひとたちのあのため息をどうおもうかね」。「でも、この西ベルリンこそ籠の鳥でしょう。壁に囲まれている街なんかに住んでいるからアル中になるんじゃないかしら」。「まあ、とにかく難しい問題だよ。あんたもせっかちに結論を出さずによくみてよく考えることだね」。
 太陽が雲の奥へ帰ってしまったので展望台を降りて街に出てみた。クーダム通りなどを歩いてみたがなんとなく落ち着かない。それに、いまやニナリッチもバーバリも西のお金さえ持っていれば東のインターショップでも買えるのだ。
 少し早いけれど東に戻ることにしてフリードリッヒシュトラーセ駅に向かった。

 えらく早かったな

 Z00駅でキオスクにいってみた。西側の新聞を見出しだけでもみたいと思ったのだ。「新聞スタンドはどこ」ときくと売り子のおじいさんはにこにこして壁を指した。8mぐらいの壁がわ全体が新聞と雑誌でうまっているのだ。
私のわかるものだけでもフランクフルターアルゲマイネ、ニューヨークタイムズ、イズベスチヤ、人民日報、朝日新聞など。このほかアラビア語、ギリシャ語などの紙名すら読めないものもたくさんあった。
 かつて東西両ベルリンは東西両陣営のショウウインドウだと言われていたという。このウインドウ較べ、いまやクリーンで秩序正しくしかも気の利いたブティックなどの並んでいる東ベルリンのほうに軍配があがることは、ごみだらけでコジキやアル中のうろうろしている西ベルリンも認めていることだろう。しかし、この新聞スタンドは、東ベルリンというショウウインドウが西側諸国では品揃えの目玉となっている自由、中でも情報の自由という品揃えに欠けていることを訪れたひとに示しているのだなと思った。
 新聞の見出しだけみた限りではこの世の中、大事件は起こっていない。記念に切手を買った。ただし、駅の郵便局には記念切手はなかったので通常切手を買った。西ドイツのものと同じものだが、DEUSCHE BUNDESPOST BERLINと国名にべルリンという字が入っている。
 帰路の入国手続きも入国カードに残りのホテルヴァウチャーを添付して渡すだけで簡単に終わった。しかし入国査証料1200円也をしっかりとられた。ずんぷん高いサラダについた。東側のコンコースで往路の窓口にいたポリツァイさんが交代で一戻ってくるところに出会った。こっちを向いてにやにやしながらなにか言っている。おそらく、「ずいぶん早く帰ってきたな」というような意味のことをいっているのであろう。

 鈍行でマグデブルグヘ

 行きと同じ要領で今度は逆に東の国電に乗り換えてアレキサンダープラッツまで行く。ここには、大きなホテル、デパートの他、われわれ外人旅行者の世話を一手に引き受けているライゼビューローの本店がある。ここで、もう一度、ベルリン市内のホテルを捜してもらおうというのだ。
 我ながらずいぶんしっつこいと思う。しかし結局ここでも「残念ですが」ということになる。
 ようやく諦めてマグデブルグにいくことにする。ところがシューネフェルト駅にいってみるとマグデブルグ行きの急行は出てしまっていた。駅の時刻表によると次の急行がマグデブルグに着くのは24時になる。もっと早く着くローカル線があるのではなかろうか。駅のインフォーメーションオフィスにいってみた。日本と違って時刻表を持っているひとの少ないヨーロッパではこの種のものはよく利用されているが、ここもご多聞にもれずふたつの窓口はお上りさん達で賑わっていた。窓口の中年女性は私の求めに応じて手許の記入用紙に時刻表も見ずに出発時刻、乗り乗換駅の到着時刻、出発時刻、マグデブルグヘの到着時刻をさらさらと書いてくれた。これによると23時には着く。
 まだすこし時間がある、駅のセルフレストランでハンバーガーを食べる。パンもふんわりして暖かかったし、わりにおいしかった。

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Comments

「鈍行でマグデブルグヘ」の章。5月8日は対独戦勝利の「解放記念日」。メーデーからここまでの1週間は東欧諸国の政府・労働組合・婦人団体等々 さまざまな公式代表団で東独首都の宿泊施設は満杯。ホテルが取れないのも不思議ではありません。ついでながらマグデブルグという呼び名の町はドイツにはありません。マ「ク」デブル「ク」という音なのですが、いったい誰がテンテンをつけたのでしょうかね。

Posted by: e. george | 2008.09.07 at 06:08 PM

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