東ドイツ紀行(1986年5月)・その5
第 五 章
国鉄の乗車券について
日本でホテルの予約をしたときYさんが日程表をみて「国鉄の切符も手配しておきましょうか」といってくれたのでたのんでおいた。このときは多分、フリー切符か周遊券のようなものが用意してもらえるのだろうと思ったのだ。
ホテルのクーポン券を受け取るとき、このことをたずねるとあんまり要領を得た答えがなかったので、あっちにいけばわかるだろうとそのままにしておいた。
前日、ホテルエルフルターホフのフロントで「ライゼビューローからです」という封筒を渡された。なかには普通切符が一枚と手紙がはいっていた。切符はエルフルトからドレスデン迄で、手紙には多分、「この切符でワイマールには途中下車できます。ドレスデンから先の切符はあちらで用意しております」。と書いてあったにちがいない。というのは、ドレスデンのホテルでもチェックインのときに同じような切符と手紙を渡されたから。こんなことなら現地についてから都度、買ってもよかったのだが。それにしても、ここのライゼビューローは仕事がしっかりしているしインターホテルとの連携プレーも見事だ。
という訳でエルフルトから先は切符をいちいち買う必要はなくなった。
″親切″の街、ワイマール
アイゼナッハから再びエルフルトを通って約50分程でワイマールに着いた。ここだけではないが列車の乗り降りはホームにいるひと、車内のひとの完全な助け合いですすめられる。荷物を受け取ってあげるひと、こどもを抱きとってあげるひと、お年寄りに手を貸してあげるひとなど。
この駅は街から少し離れているのでバスを利用する。例によってバス券売り場さがし、乗り場さがしでうろうろする。ところが、この街のひとは特に親切で切符をくれるひと、これを断るとキオスクまでついてきて切符が買えるように世話をしてくれるひと、マルクトプラッツ方面に行くバスの乗場までついてきて、車内のひとに郵便局で降ろしてやってくれとたのんでくれるひと、バス停からマルクトプラッツまでついてきてくれるひとなどなど、とにかく親切なひとばかりで恐縮してしまう。
ホテル エレフアント
ホテルは駅に近いところをーーーといって予約してもらったが、ここだけは例外だ。このホテルは古い歴史のあるホテルだから。なにしろ、ゲーテの頃からのもので、リストやメンデルスゾーンも泊まったという。特に、ゲーテの晩年、ゲーテ先生に一度お目にかかりたいとヨーロッパ各地から当時の文化人が馬車でやってくる。そしてワイマールに着くとまず、マルクトプラッツのホテルエレファントに旅装を解いたという。インターホテルとしてのランクは最低の星3つ(エルフルターホフは星4つ、ライブツィヒのメルクワは星5つ)であるが、インテリアはとても趣味がよい。どうやらこの国でもホテルの星の数は設備で決まるようだ。例えばサウナやプールがあるとか。
夕食はホテルのレストラン、ベルベデーレで。パイ皮包み焼きのとりのコンソメとシュリンプカクテルのような料理が運ばれてきた。本人は半分当てずっぽうで注文しているので、なんの料理か食べてみるまで確とわからない。ところがスープを一口すって「うむ、おぬし、なかなかやるな」と思った。なんとも上品な味である。さすが、古い文化を誇る街にはおいしい料理がある。食事代はビール、デザート、チップまで含めて3千円弱であった。
ゲーテパークなど
5月6日(火) 晴れときどきくもり、一時雨
例の8マルクの朝食を済ませると、まずゲーテパークを訪れた。ホテルのすぐ裏手なのだが、街の喧操(もともと静かな街ではあるが)をまったく感じさせない公園だ。イルム川をはさんで緑の散歩道がつづいている。
川のむこうにはゲーテ山荘がある。日本の公園のようにビルやネオンがみえたりはしない。深山幽谷にいるようだ。そのうえ、ずいぶん大きな公園だ。
ここから住宅地を通って「ゲーテとシラーの墓」にいく。神社の鎮守の森のようにこの廟も森の奥深くにある。1824年から24年の歳月をかけて作られたという納骨堂にお参りする。朝早いためか他にだれも参詣人がいないので、うすら寒くて暗くしめっぼい地下の納骨室に一人で
降りていく。大きな石の棺がふたつ、少し間をおいて並んでいた。なんだか気味がわるくてすぐあがってきてしまった。入り口の小さなキオスクで絵はがきを買ったら「気持ちが悪かったでしょう」というようなことをいって、おばさんは肩をすぼめた。この墓地には、ワイマール大公や「ゲーテとの対話」の著者エッカーマンなどのお墓もあるそうだ。
ワイマールが今日あるのは、ここの歴代の領主によるところが大きいのではなかろうか。バッハを招聘したのも、史上最高のスカウトともいうべきゲーテをフランクフルトからはるばるひっばってきたのも、領主、皇太子という人たちであったとう。話は飛ぶがエステルハーツィー公がいなかったらハイドンもシュベルトも困ったにちがいない。現代の云術家はマスコミや大衆、社会主義体制というご主人に仕えているわけだが文学や芸術に理解ある殿様に仕えるのとどっちがしあわせであろうか。
次に国民劇場にいく。ここで、にわかに大雨になった。ゲーテの像もシラーの像も放射能の雨にぬれている。
広場をぶらぶらしていたひとたちがいっせいに雨宿りをする。
大急ぎで子供にレインコートを着せているひともあった。
ヨーロッパのひとたちはわりに傘をささないと思っていたのに今日は違う。これは相当チェルノブイリを意識しているな、と思った。私も髪の毛がぬけるのは嫌なので郵便局に駆けこんだ。
そして絵はがきを書くことにした。書きあがったハガキを窓口に持っていくと45ペーニッヒだといって料金表のヤーパンを指で示した。不思議だ。昨日、エルフルトの郵便局では55ペーニッヒだといったのに。
しかし、どちらもつつがなく日本へ着いていた。多分、料金改定があったのに、料金表を差し替えるのを忘れているのだろう。雨があがったらもうお昼近かった。ヘルダー教会だけをみてホテルをチェックアウトしワイマール駅にむかった。
プーヘンヴアルト収容所に行かなかったわけ
もうひとつのワイマールにおける必見の地、ナチスのユダヤ人収容所には行かなかった。時間がなかったからではない。今度の旅行はまったくの個人旅行なので、この6日間どこでなにをみるか、これをすべてきめるのは私自身なのだから。理由は恐ろしかったからだ。暴君ネロやキリシタン殉教の史跡ならばだいぶ風化しているからまだしも気が楽である。しかし、これは私が生まれてから後の、当時の同盟国でのなまなましいできごとだ。卑怯かもしれない。
でも、これに直面する勇気は私にはない。
重々しい車内の雰囲気
今日はライプツィヒ経由でドレスデンヘいく。列車がまた遅れた。お陰で「シュペート」という単語をおぼえた。イタリアヘいくと「キウゾ」という単語をおぼえるようなものだ。
ライプツィヒでドレスデン行きのホームにいってみると何やら異様な空気がただよっている。兵士、兵士、ものすごい人数の兵隊さんが広いホームを埋め尽くしてしる。そのうえ、まだ階段からあがってくる。皮の長靴をはいてカーキー色のユニホームをきて、おなじカーキー色のザックと毛布を背負っている。ホームの両側に5メーターおきぐらいに将校らしいひとが立って鋭い目つきであたりを見張っている。列車がはいってきた。今日の列車はコンパートメントでなくサロンカーである。なるべく兵隊さんたちの乗らない車両をさがして乗る。それでも、通路の反対側の席は将校で一杯だ。私の前の席もそうだ。いつもの癖で「この列車はドレスデンヘいきますよね」といった。向かいの軍人はガラスのような目でちらっとこっちをみたがなんにも答えなかった。シラッとした重曹しい空気が車内に漂った。隣の奥さんがあわてて「ええ、いきますよ」と答えた。私の隣の若い男の人は読みかけの新聞から目をあげない。ちらっとみたらどうやらチェッコの新聞らしい。いままでいつも車内を覆っていたほんわかムードはここにはない。将校のひとりがペーパーバックを読んでいる。ちらっとみるとロシア語だ。しかも、表紙には英語でCIAとかかれている。背筋に冷たいものが走った。と同時にすべてが理解できた。彼らはロシア兵なのだ。ドレスデンはポーランドにもチェコにも近い。おそらく、ポーランド国境警備に向かう一隊なのだろう。とかくもめごとの多いポーランドで何かあれば、ソ連と東ドイツの両側からはさみ打ちするつもりか。彼らはドレスデンのひとつ手前、レスデンノイシュタットで降りた。
ざっく、ぎっく、ざっくという軍靴の昔が重いリズムを刻む。これから行くドレスデンが今度の戦争で壊滅的な被害をうけたときいているだけに、余計、この軍靴のリズムが耳に残った。
明るいドレスデンの街
すっかり、重々しい気分でドレスデンの駅をでた。ところが、この街はいままでみたエルフルト、アイゼナッハ、ワイマールなどと違って近代的な大都市だ。新前広場はびっくりするほど広い。土地の私有が認められていない国では市街地の再開発を邪魔するひともいないのであろう、利権屋さんとヤーサンのお陰で駅前のバスターミナルさえ作れないどこかの街とはちがう。駅前広場はすべて歩行者天国になっている。そして広場の両側にはネバ、バスタイ、ケーニッヒシュタイン、リリエンシュタインといったインターホテルや商店などの高層ビルが軒をならべている。
今夜の宿はこのひとつ、リリエンシュタインだ。このところの暑さで広場ではアイスクリーム屋さんが大繁盛だ。
ライゼビューローに行かされる
リリインシュタインのフロントにクーポン券を渡すとしばらく待たされた。やがて主任らしい女性が現れて「最初のホテルで間違って(正)の方をはぎとってしまった。次のエレフアントでもそのことは知っていたがそのままにしていた。あなたの落ち度ではないけれどこのままでは、これから先も行くさきざきで問題になる。ここのライゼビューローでクーポン券の再発行をうけたほうがいい。あなたはこれからすぐ行くべきです。ライゼビューローには私から電話で事情を説明しておきます。荷物はここのクロークで預かりましょう。それから、ライゼビューローヘの道順は、この地図の通りです」。と分かりやすい英語で説明した。自分の落ち度でもないのに大事な時間をこんなことにとられるのは不本意だが、この主任さんの対応は資本主義国のレベルからみてもまずまずなので素直に指示どうリライゼビューローに行くことにした。
ホテルから5分ほどでライゼビューローに着いた。ここでも中年の女性がにこやかに待っていた。確かに話は通じていて5分も待つとタイプで打たれたばかりの書類ができあがった。かくして、ホテルリリエンシュタインに無事チェックインできた。
このホテルはバスつきの部屋がない。おまけに相当な安普請でべ二アの床板が反っている。おそらく急激なホテル不足に対処すべく突貫工事で作ったに違いない。
エルベとの対話
ホテルに荷物を置くと街へでた。旧市街を通ってエルベのプブリュールのテラスにいく。1945年の爆撃で徹底的に破壊されたというのに、いまやほぼ完全に昔の町並みが復元されている。ノイマルクトにある瓦礫の山だけが41年前を物語っている。
テラスに腰をおろしてあたりを見回すと河畔にはバロック建築が重厚な姿でならんでいるし、遊歩道にはこれも由緒ありそうな彫刻が並んでいる。暑い日だったが河面をふく風は心地よい。傾きかかった陽がエルベに反射している。
すべて明るい風景なのに、私の心は重く沈んでいた。耳の奥にはさっき、車内できいたあの、ざっく、ぎっくという軍靴の音が残っている。
ドレスデンはたしかに復興した。
あの瓦礫の山だけを残して。
しかし、ここから幾らも離れていない国境地帯には、ソ連、東ドイツの大部隊が駐屯している。彼らは現代の防人だ。本当に、エルベの水が再び血に染まることはないのであろうか。私はすっかり気がめいってしまった。
センパー美術館でラファエロのシスチンのマドンナをみた。が、これも私の気持ちを引き立てたりにしなかった。
十字教会も市役所もみる気がしなかった。アンデルセンやゲーテが賛美した、北のフィレンツェといわれたドレスデンは見事に蘇っている。この市民たちの驚くべき根気と努力には深く敬意を表したい。でもこれをみないという私の勝手を許してもらいたい。
まだ、昼間のように明るいプラガ一通りをとぼとぼと引き返した。そしてホテルのレストランで夕食をして早めに寝てしまった。





Comments
ゲーテパークなどの章。「ゲーテとの対話」の著者名「エッケンマン」は エッカーマンの誤植です。
エルベとの対話の章。「プリユシュのテラス」はザクセン王国宰相のブリュールがエルベ川堤防の上に作らせた見晴らしのいい遊歩道でドイツ語読みなら「ブリュールシェ・テラッセ」となります。だからここは「ブリュールのテラス」の方がいいかもしれません。余計なことですけど 念のため。
Posted by: e. george | 2008.09.07 at 05:04 PM