東ドイツ紀行(1986年5月)・その3
第 三 章
ガイガ一計数器の待つフランクフルト空港
タラップが取り付けられ、ドアがあき、乗客が降りはじめた。ところがいっこうに行列が先に進まない。私はいらいらしていた。一日一本しかない東ドイツ行きの列車は11時57分フランクフルト中央駅を発車する。乗り遅れたときは空港にとってかえし、パンナムで空路西ベルリンヘ行き、東ベルリン経由でエルフルトヘ行かねばならない。こうなるとエルフルトに着くのは夜8時を過ぎてしまう。
2~3人ずつ降りては2~3分待つというようなテンポで行列はいっこうにはかどらない。それでも15分ほどでやっとタラップに出られた。ここでやっと待たせられた理由がわかった。アイロンのような器具を持った空港係員が乗客ひとりひとりのからだを調べている。我々は汚染地域のモスクワから到着したので放射能のチェックを受けなければ入国できないのだそうだ。私の順番がくると、にこにこしながら入念に検査し「オーライト」と言って空港バスのほうをさした。
あまり緊張感はなくお客も係員もふざけたりしていた。結局、全員異常がなかったらしくその場に残され人はいなかった。
効率的なフランクフルトの交通システム
我々がターミナルビルにはいったのは11時10分を少し過ぎた頃だった。もう駄目だろう、でも行くだけはいってみようと入国手続きを急いだ。ところが、パスポートコントロールはすいすいと通過でき、バッゲージクレイムにはすでに荷物がでていた。国電の空港地下駅はロビーの真下、電車は15分に一本ずつ出ていて、中央駅までは、わずか15分、駅ではピクトグラムにしたがって進むとすぐ出札窓口がみつかった。トマスクックの時刻表のなかのERFURTというところに赤ペンでアンダーラインをひいてみせると切符はすぐ買えた。ホームの表示も分かりやすくめざす列車もすぐみつかった。列車は予想していたよりずっと混雑していた。なんとかあいているコンパートメントをみつけてすわって時計をみるとまだ発車まで6分あった。これぞドイツ的効率主義である。
車内で親切な日本人に会う
荷物を網棚にあげてほっと一息ついていると、「ああ、あいているとこがあるワ」という、まぎれもない日本語、しかも、関西弁が耳にとびこんできた。と同時にダークスーツの中年の二人づれの日本人がコンパートメントに入ってきた。彼らはしげしげと私をみて「へえ、おたく日本の方ですか。どこ行かはるんですか。へえ、東ドイツヘお一人で。そやけどだいぶ変わったかたですな。まあ、おたくもつれがあってよかったワ。ひとりやったら心細いでしょう。」と一息でしゃべった。きけば、彼らはエンジニアで技術提携しているライプツィヒ郊外の東ドイツの会社(ここでは人民所有企業というらしい)に技術指導のために滞在している由。典型的な日本のサラリーマンでゴルフやマージャン、パチンコ、縄のれんに縁のないこの国での暮らしは忍の一字のようだ。唯一の楽しみはアパートで乏しい材料をやりくりして日本食をつくって食べることにあるという。その日はたまたまメーデーで会社が三日間休みだったので西の空気を吸いに西ドイツのバーデンバーデンに出掛けた帰りとのこと。しかしわざわざ西に行ったのにぜんぜん日本人に会えなかったとがっかりしてこの列車に乗ったところ私がいたーーーということらしい。
列車は国境を越える
発車して一時間半ほどたつと草原のむこうに牧場の柵にしてはちょっと高いかなと思うようなフェンスがえんえんとつづいているのがみえた。エンジニアさんたちの話ではこれぞ東との国境とのこと。しばらくして西ドイツの係官が巡ってきて形式的にパスポートをみていった。
ベブラをでてほんのわずかでまた列車がとまった。外をみると駅で、ホームにはお稲荷さんの鳥居の幟のように国旗がやたらめったらたっていた。これをみれば東ドイツに入ったということはよほどぼんやりしていてもわかる。しかし、車内には予想していたほどの緊張感はない。やがて各車両二人ずつ係官が乗ってきて車両の両側から挟み打ちにするようにパスポートチェックをはじめた。ちょうど、駅弁売りのようにアタッシュケースのようなものを90度ひろげて首からぶらさげている。どうやら中にはスタンプ、スタンプパッド、ボールペンなど文房具がはいっているらしい。なるほど、これは名案だ。係官は特に愛想がいいということもないが冷たい感じでもなくまあわが成田の出入国管理官殿とかわりない。エンジニアさんたちも、おなじコンパートメントの東ドイツの老夫婦もつつがなくチェックをおえた。税関らしき人はついに現れなかった。念のためほかの車両にもいってみたが私のみた範囲では荷物を調べられている人はいなかった。ただ網棚にあった西ドイツの新聞、雑誌などは持っていったようだ。(活字の持ち込みは禁じられている)。
東ドイツという国はない
いままで、東ドイツ、東ドイツといっていたが厳密にいうと東ドイツという国名は存在しない。この国は正確にはドイツ民主共和国と呼ぶのだそうだ。ちなみに西ドイツはドイツ連邦共和国というらしい。なんだか民主というと西側のイメージが強いし、連邦共和国というとソ連みたいでなんとなくまぎらわしい。やっぱり東ドイツのほうが分かりやすいのでこれからもそう呼ぶことにしたい。
ついでに、東ベルリンという街の名前も正しくない。これは「ドイツ民主共和国の首都であるベルリン」と呼ぶのが正解。落語の「じゅげむ」みたいでとても付き合いきれない。
更に、東ドイツを東欧諸国とするのも異論があるようだ。東ドイツ国鉄(ライヒエスバーンという極めて帝国主義的な呼びかたをする)の食堂車や駅の構内食堂を経営している、いわばこちらの日本食堂にあたる企業をミトローパというがここは地理的にも文化の面からもまさに、中欧であって東欧ではない。例えば、アイゼナッハは西経10度すれすれに位置している。ミュンヒエンやニュールンベルグ、イタリアの大部分より西に当たる。ここが東欧だとするとウィーンなどは極東といわねばならなくなる。
文化的にも音楽、哲学などヨーロッパ文化の真髄がここから生まれており、まさにヨーロッパのなかのヨーロッパといえる。東欧というのは単に政治的な区分でしかない。しかし、この区分が今日のヨーロッパではなにものにも替えがたい極めて重い意味をもっているのでやむを得ず東欧と呼ばざるを得ない。
両替とため息
他の東欧諸国と同じようにここでも車内を銀行の人が巡って両替をしてくれる。もちろん、西ドイツマルクと一対一の公定価格である。銀行屋さんを呼び止めて、六日間、滞在するのだからどっちみち三方円は要るだろうと四百マルクを差し出した。すると、かたずをのんで事態を見守っていた東ドイツの老夫婦から悲鳴ともため息ともつかぬ声がもれた。エンジニアさんの通訳によると「大事な西のお金をそんなにあっさりと大量に両替するものではない。すこしずつ、足りなくなった都度両替をすべきだ」といっているとのこと。お気持ちは有り難いが私にも私の事情がある。
わずか六日間であれもこれもみたい私には両替についやす時間こそもったいない。しかし、せっかくのご意見なので百マルクヘらして三百マルクにした。二万円ちょっとである。それでもまだ老夫婦は不満そうであった。この三百マルクがどのくらい使いでがあるかこの時点での私は知らない。
なお、東ドイツの名誉のために敢えて付言すると滞在中に一度もいわゆる闇ドル買いに声をかけられたことはなかった。
コンパートメントのなかで
エンジニアさんたちと一緒だったのでとても助かった。
まず、東ドイツの老夫婦の通訳をしてくれたこと、それから、旅行者ではなかなかわからない東ドイツ事情、とくに日本人が知りたいと思うようなことをいろいろきかせてくれたこと、例えこの囲の生活を楽しんでいない彼らの偏見がまじっていたにしてもやっぱりナマの生活者の実感は貴重である。以下の記録のなかで出てくるこの国の実情の多くのなかにはこのとききいたこともすくなくない。
まず、老夫婦のことである。東ドイツでは男は六十五才、女は六十才になると西側への旅行が認められる。おそらくこの老夫婦もそのくちであろう。西へ必死で出たがるのは主として中年で老人連中は西に遊びにいってもまず、もどってくる。万一、もどってこなくても国家にとっての損失はない。働かないで年金をもらっている彼らは国家にとっての、いわば扶養家族なのだから。
ただし、この国の外国為替管理は厳しいので西のマルクに替えられるのは一日わずか二千円程度とのこと。したがって万事物価の高い西では民宿に泊まることもままならない。やっぱり西に親戚でもなければ出掛けられないというのが実情のようだ。 この老夫婦はデュッセルドルフヘいった帰りとのこと。おじいさんは紙袋からウイスキーのビンをとりだしてはチビリチビリと飲む。そしてビンを光線に透かして「ああ、もうこんなに減っちゃった」というように笑っておばあさんのほうをみる。おばあさんは袋からバナナをとりだしておじいさんと半分ずつ食べる。そして残りをかぞえる。(5つ残っていた)。コメコン経済圏ではバナナの生産が需要を下回っているので東ドイツ国民もいつでもバナナが買えるわけではない。街に出回るのはせいぜいクリスマスとメーデーぐらいとのこと。すなわちバナナは貴重品なのである。そのくせ、西ではバナナは至って安い。だから西へ行った人はよくおみやげにバナナを買ってくるのだそうだ。
おひとついかがですかとすすめてくれたがこれをきいたあとではとても受け取れない。「おなかが一杯なので」と断った。
また、おばあさんは網棚のカバンからお孫さんに頼まれて買ってきたというジーパンを出してみせてくれた。東ドイツでももちろん、ジーパンは売っている。しかし、お孫さんの意見では西の製品に較べてなんとなくダサイのだそうである。「孫が気にいってくれるといいのだけど」といいながらおばあさんは荷物を網棚にもどした。
チューリンゲンの森
40分ほどで列車は出発した。トンネルをでると窓の外は新緑の目にしみるような森である。まさにシューネマイである。おじいさんとおばあさんはうなづきあって「さあ、チューリンゲンだよ」といっているらしい。この土地の人達のチューリンゲンに対するおもいいれは激しいそうだ。列車はアイゼナッハに止まった。そとは雷鳴がして大粒の雨がふっている。今日は格別暑いので夕だちがきたのだろう。おじいさんは「この土地では摂氏27度を越すとかならず夕だちがくるのだ」という。すぐ話のなかに数字がでてくるところをみるとこのおじいさん、まぎれもなくドイツ人である。
アイゼナッハは昔から軽井沢のように避暑地として知られたところだぞうだ。
おじいさん、おばあさんとだんだんうちとけてきたころ、列車は今夜の宿泊地のエルフルトに定刻より10分遅れて16時24分に到着した。



Comments
これも面白く読みました。2点だけお知らせ。(1)東独に列車が入った後で網棚にあった西独の新聞雑誌を持っていった人か外貨交換をしてくれた人のどちらかが税関のはずです。(2)共産圏でバナナが収穫できるのはキューバぐらいじゃないですか。食用バナナはすべて西からの輸入物です。だから需要と生産のバランスの件は何かの誤解でしょう。1985年東ベルリンの自宅でウクライナから訪ねてきた一家にバナナを出したら2人の子供が気味悪がって手を出さなかった記憶があります。西の外貨を使ってバナナなんか一般民生用に輸入できるかというのが核大国ソ連の政策でしたから。
Posted by: e. george | 2008.08.29 at 01:09 PM